るるどの覚書

全く私的な独り言から、素朴な疑問や社会的な関心ごとまで、日本での生活の中で感じたり、思ったり、考えたことの覚書ブログ。気軽にコメントして下さると嬉しいです。

2007/05/28

『光あるうち光の中を歩め』

『・・・生の欲求を実現しようとせずに、いのちの光が弱るままに放置すること、これは人類共通の病のように思える。』
島田啓介さんのVoice in Voiceに書かれていた上記の部分は、思わずペンを取り出してメモ帳に走り書きしてしまったほど、気にかかる言葉でした。

「息をしていても、目を開けていても、歩いていても、生きているのか、死んでいるのかわからないまま、流されるままに生きている人も多いんだろうなぁ・・・」と考えていると、次の言葉が思い出されてきました。“Death is not the greatest loss in life. The greatest loss is what dies inside us while we live."

I know that I want to be alive while I live. Who does not?

そんなことを考えながら、次の日、電車に乗ると、目の前の男性は本を読んでいました。カバーがされていないその本の背表紙を見ると、トルストイの『光あるうち光の中を歩め』でした。昔、読んだことがある本だけれど、再度、読み返してしまいました。この本は、学生の頃、友人がくれた本。

神の愛に満ちた教えに従い、共同体の中で生きたパンフィリウス。俗世界にどっぷりつかり、パンフィリウスのいる世界に行こうと思い立つたびに、迷いや誘惑によって俗世界から離れることのできないユリウスの生き方に自分を重ねてしまいます。

15、16歳の頃、修道院に行って修道女になるとか、出家して尼さんになるんだと言っていたことがある。周りの人たちは「この世でいろんなこと、できるかぎりのことを経験してから、出家したほうがいいよ。この世で経験し残したことがあると、戻ってきたくなるから」と言う。「ああ、そんなものかもしれない。いろんなことをして、たくさんの経験を積んでからのほうがいいのかな」と思った。

学生の頃、看護師になりたいと言ったら「看護師は3Kの仕事。綺麗な仕事じゃないし、肉体労働で大変。あと1年で大学卒業なのに、なんで今頃、わざわざ進路の変更までして看護師になりたいの。社会人になってから、良く考えて、それでも行きたければ、看護学校へ行けばいいじゃない」と言われた。「こんな時期になって進路変更すると、それまで費やした時間もお金ももったいない…仕事に就いてから考えてもいいのかもしれない」と思った。

その後、(ある国で)臨床心理学の博士号を取得し、臨床心理士になりたいと言ったことがある。すると「(その国では)臨床心理士は、精神分裂病やアル中の“病人”を相手にするんだよ。“普通”の人で相談ごとを持っている人たちの相手をするカウンセラーになったほうが、私生活に負担のない働き方ができるよ」と言われた。「(その国では臨床心理士になるためには医師になるのと同じくらい時間や労力をかけていた)人のために相談にのる仕事をしたいのなら、臨床心理士でなく、カウンセラーもいいのかもしれない」と思った。

今、修道女でも、尼さんでも、看護師でも、臨床心理士でもないのは、優柔不断で、意志が弱く、実行力の無い自分自身の責任。楽な方、楽な方へと、内発的に湧き上がる意志や思いや情熱を抑えつけて、最もであるかのような言い訳で自分を納得させ、惰性に流されていく私。(他にも、やりたかったこと、歩みたかった道はあるけれど、今日は上記に書いたことが、特に思い出された…)

今度の決断はどうなることだろう。

いのちの光が消えないうちに、一歩を踏み出そう。

そうしないと、いつか本当に歩くゾンビになってしまうかもしれない。

2007/05/22

『私は貝になりたい〜あるBC級戦犯の叫び』

『私は貝になりたい〜あるBC級戦犯の叫び』著:加藤哲太郎(春秋社・1994年)

「戦争は、人間を発狂させる。死ぬか生きるかという、せっぱつまったとき、あらゆる価値が転倒する。殺人がもっとも美徳とされるのが戦争である。自分が人を殺す、また仲間の兵隊が敵に殺されるのを見る、そして自分もまた、いつなんどき殺されるかわからないという心理が支配的となったとき、人間は発狂するのである。発狂の原因が取りさられてふたたび冷静が彼を支配したとき、あの時なぜ自分はあんな馬鹿なことをしたのか、ふしぎでたまらないのである。気の小さい、虫も殺さぬような、しかも一応の教養のある人までが、いったん発狂すれば、大それたことをやらかすのだ。」(p.47)

「罪は戦争にあるのではなく、戦争に参加した各人にある。人殺しが犯罪であることは当然だ。戦争はイコール殺人そのものではないとしても、殺人のともなわない戦争は考えられない。」(p.49)

「お国のためだからと自己をいつわって生活のために職業軍人となった人、刑務所にやられるのが嫌さに召集された人、軍律が恐ろしくて逃亡しなかった人、このような人は、自分が戦争に参加したこと自体を、大いに反省する必要があると思う。私は七年の戦犯生活のあいだに、このことだけは痛感した。そして多くの戦犯がこの反省をしたのである。・・・・彼らは、もし万が一にも不幸にして戦争がおこった場合、彼らの力では如何ともすることができなくなった時には、逃げるより仕方がなくなった時には、堂々と逃げるだろう。戦争犯罪を犯さんよりは、監獄を選ぶだろう。・・・・」(p.49-50)

「私の理解するかぎり、法と道徳とは、決して同じものではなかった。これらのものは、決して合致するイデオロギーではなかった。・・・・従来、両者は決して同じものではなく、あまりにもしばしば、対立するものでさえあった。義理や人情のために掟を破る、または掟のために義理人情をすてる、これが人間社会の多くの悲劇であり、社会の大いなる矛盾でさえあった。そうだ私たち戦犯すらが、その悲劇の主人公ではなかろうか。・・・・法、すなわち強制する社会的権力、時にはその本質の暴力さえあらわにして、私たちをいやおうなしに強制するところのものと、私達のモラルとは多くのばあい、全く相反していた。私たちはその両者の板ばさみとなり、シャニムニ二者のなかのいずれかの選択をせまられた時、私たちは道徳を犯したのである。私達の犯した罪、すなわち道徳的犯罪をどうして、この道徳とは別個のものであるところの法が罰しえようか。のみならず、そんな法自体がまるっきり存在しなかったのだ。・・・」(p.51-52)

「ほんとうに戦争をにくみ、平和を愛するならば、自分の体験した戦争を、あなたの犯した戦争犯罪をバクロすること、平和を愛する国民のまえに、自分の犯した過ちを発表する勇気を、戦争犯罪を犯したすべての人に要求したいと思う。このためには、どんな発表手段を通じてもかまわないと思う。あらゆる方法をもちうべきだと思う。・・・・」(p.53)

「・・・将来、戦争があって、もし日本がそれにまきこまれた場合に、かりに一保安隊さんが、「俺は戦争には参加しても、決して戦争犯罪を犯すまい。このように決心していれば、俺は決して、戦犯にはならぬだろう」などと考えれば、それは愚かな考えである。戦争があるかぎり、戦犯はかならず生まれる。これだけは断言しておく。じっさいに、戦犯に問われるような事件に関係していた兵隊や地方人で、その名前を中国人に覚えられていた大部分の人は、敗戦後、優先的に帰国することができた。そして、彼らは、今では何食わぬ顔で故郷に帰り、忌まわしいことはすべて忘れてしまっている。これに反して、まさか自分は戦犯になるまい、と思った人、そのためにほんとうの戦犯を先に帰してやって、残務整理などにのこっていたお人好しが、戦犯に問われてしまったという場合が多かった。・・・・附言するが、金を持っているもので戦犯になったのは、中国ではきわめてまれである。身代金をしこたましぼられて、不起訴になったのである。」(p.56-58)

「昭和十五年の暮、二十四歳で中国の戦線へ応召された私は、終生忘れ得ぬ凄惨な光景に直面しました。初年兵の実戦的訓練という名目で連れ出された私たちは、八路軍という嫌疑で捕まった十人ばかりの中国人捕虜の処刑を命ぜられたのです。捕虜の背中の左肩に赤いチョークでくっきりと×を書き、「ここを突け」という命令でした。そのなかには「おれは八路兵ではない。そこの部落には父親も母親もいる。助けろとは言わぬ、もう一度調べてくれ」と叫ぶ少年もいたのです。中国語の少しわかった私は、あわれな少年の番がまわってきたとき、思わず前に出て「待ってください、八路ではない、罪がないといっています。待って下さい」と叫びましたが、命令を下したD中尉は、「きさま、血を見て逆上したな。いいか、これは憲兵隊で十分調べられて、八路とわかっているのだ。たとい一人や二人良民がまじっていたって、もう手遅れだ。この処刑は中隊長殿から命ぜられた。命令は天皇陛下の命令だ。お前は命令がどんなものであるか知っているだろう。たとい間違っていても、命令は命令だ。ことの如何を問わず命令を守らなければ、戦争はできん。わかったか。わかったらひっこめ」と落ち着きはらっていうのでした。 その少年は目かくしされ、刺し殺されました。そして突き殺される一瞬前まで、「八路でない」と叫びました。最後の言葉は「母さん」でした。声がなくなっても、肺臓は無実を訴えていました。口からプツプツと血の泡がふき出して、ゴロゴロと喉を鳴らしました。ほかの人たちは一言も発せず、従容として死についたのです。私は、引っ込んでいろ、という言葉をもっけの幸いに、とうとう手を下さずに済んだのですが、もし、中尉の気がかわって「お前もやれ」といわれたならば、とうてい逃れるわけにはいかなかったでしょう。このおそろしい恥ずべき体験で私の神経は狂い、すっかり人間が変わったといえます。」(p.106-107)

「・・・こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません、人間にいじめられますから。どうしてもうまれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にヘバリついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしてもうまれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです。・・・・・」(p.119-120)

内海愛子氏による『解説』より、一部抜粋:

「BC級戦犯たちが、匿名を使い、危険をおかしても訴えたかったのはなんだったのだろうか。戦犯裁判の不当性もあるだろう。天皇や財閥などもふくめて、戦争責任をとるべき多くの者たちが責任を逃れたこともある。天皇の軍隊への批判もある。軍隊の中で権限をもち、戦争を指導してきた将校たちが戦後もそのまま温存されていること、国民の手による戦争裁判が必要なこと、戦争を具体的に、個別的に、体験的に示さなければならないこと、戦争に参加した者が一人一人自分の戦争犯罪を語ることによって、侵略戦争の犯罪性が明らかになり、平和運動への力になることも訴えている。それぞれが自分の体験をベースにした作品のなかで、これらの問題を提起した。加藤氏もこうした動きの中心にいたのである。」(p.265)



2007/05/02

『われらはみな、アイヒマンの息子』

『われらはみな、アイヒマンの息子』(著:ギュンター・アンダース 訳:岩淵達治 解説:高橋哲哉 晶文社 2007)

この書は、アンダースが、ユダヤ人虐殺で裁かれたナチス官僚アイヒマンの息子、クラウスに宛てた二通の公開書簡からなりたっています。

全世界が画一化された機械に化していることを案じている著者の危機感がひしひしと伝わってくる本です。

「ナチスドイツのユダヤ人大虐殺の責任者と目されたアドルフ・アイヒマン。本書は、その息子クラウスにあてた哲学者の公開書簡である。 今日、世界中が最大の成果と効率をめざし、人々は経済活動に駆り立てられている世界がひとつの『機械』になるとき、人間は機械の『部品』となり、良心の欠如は宿命だろう。 かつてアイヒマンは、『自分は職務を忠実に果たしただけだ』と言った。はたしてわれわれにアイヒマン的世界から脱け出すチャンスはあるのだろうか? だれもが『アイヒマン』になりうる不透明な時代に輝きを放つ、生涯をかけた思索」(カバーより)

「ユダヤ人の絶滅収容所への移送も事務仕事だった。知覚想像力衰弱し、良心の欠落する現代の『アイヒマン』たち。新たな全体主義の到来とそのメカニズムを予告する二つの公開書簡。」(帯より)

組織は決して巨大化させてはいけないものだと痛感させられます。身の丈サイズの組織、目の行き届く、手の届くサイズの組織を維持することの重要性が具体的な例を通して伝わってきました。イタリアの社会的協同組合の中には、組織会員数の上限が規定されているものもあると聞いています。ひとつの組織を大きくするのではなく、一定のサイズに達したとき、アメーバ的に独立し小さい規模の活動が増えることを期待するそうです。組織や企業のサイズを抑えるという利点について改めて考えさせられます。

私たちの行動が巨大化されればされるほど、私たちの感覚が麻痺し、冷酷になっていくと著者は述べています。

「十人が殺害された話ならばたぶん、まだどうにかして感じ取れても、六百万の死者は私たちにはただの数字でしかないのです。・・・」(p.45)

生産過程が複雑化し、事務作業が間接化し、巨大化すればするほど、私たちはその過程や結果から、阻害されていきます。自分の行為の結果を自分の招いた結果だということを想像する力を失っていきます。

そして、巨大な作業の一部の担い手としてまじめに働き続け、その全体としてのメカニズムや最終的な結果についての関心を少しずつ失っていきます。自分の担っている細分化された仕事や専門化された仕事の持つ意味、自分の仕事が全体的に何をもたらすのかを想像する力、それを感じ取る知覚までも鈍くなっていき、見えなくなるものがますます増えていきます。

著者は、「…今日、多すぎるほどの(政治的、管理的、ビジネス的、技術的な)機構や機械が存在する…」と述べています。もうすでに、「全世界が機械になってしまうという状態がすでに設定されている…」(p.75)とも記しています。

「・・・際限のなさが要求する『ともに機械になること』にしたがわないような世界のいかなる部分も、無価値で無用なものとして片づけられてしまいます。あるいは奉仕能力がなかったり、労働意欲をもたずにただぶらぶらしていたがる者、それによって機械帝国の拡大を妨害すると脅す者は排除され、屑として抹殺されてしまいます。・・・」(p.77-78)

機械化していく世界を身近で感じるとき、人間を含めて自然発生的に生まれたものを破壊していく私たちの傲慢さ、おろかさ、『わかっているけれど、やめられない』人間の怠慢が及ぼす結果の大きさに鳥肌が立ってしまう・・・。

<機械化された社会で部品になって生きるのではなく、人が人でいられる社会に生きたい>

機械に寄り添うのではなく、
人に寄り添う

お金に寄り添うのではなく、
自然に寄り添う

下を見れば大地があり、上を見れば大きな青い空がある
前を向けば子供たちがいて、後ろを向けばおじいちゃんおばあちゃんがいる
右を向けば女性たちがいて、左を向けば男性たちがいる

人を必要としてくれる人たちがいる限り、人は人として生きている
土を必要としてくれる植物がある限り、土は土として生きている
互いを必要として成り立っている自然の循環がある限り、私たちは生きていける

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2007/03/27

『こうちゃん』

須賀敦子さんの作品のひとつに『こうちゃん』があります。

「あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。」という書き出しではじまる作品です。

誰もが心の中に、多かれ、少なかれ“こうちゃん”を“持っている”ような気がします。

そのお話の中で、特に惹かれる部分があります。

「その夜、仕事がおわってから わたしは ある哲学者にあいました。そのひとは、なんさつも むづかしいことばの ぎっしりつまった本をかいた人でした。用件をおえて 私がかえろうとしていると、そのせんせいは、さて きかせたいことがあるというように、さいきん こうちゃんに会ったはなしをしはじめたのです。『こうちゃんという存在はおもしろい。俺は何時間にもわたって議論してみたが、ことごとく俺の意見に賛成しておった。』こう云って、このゆうめいな哲学者は 満足げにわらうのでした。 

暗い道を疲れはててゆく私の心は、けれどなにかくしゃくしゃに なったようなかんじでした。

こうちゃんとあの哲学者というかんけいがどうしても腑におちぬようなきもちだったからです。存在、議論、意見、賛成、どれひとつをとってみても、およそこうちゃんとは えんのないことばのようにおもえたからです。こうちゃん、あなたは もうわたしにはわからぬ、ずっととおくのほうへ行ってしまったのだろうか。こうちゃん、とうとう あなたまであのむづかしいことばの世界にのみこまれてしまったのだろうか。私は泣きだしそうなつらい気持ちで つめたい夜のなかを ひとりあるいてゆきました。

・・・そんなに あるきつづけたのです。もう町はとうのむかしに すぎてしまって、とうとう野のはての地平線が うっすらと乳いろにあかるんできました。ふとみると、わたしのすぐまえをこうちゃんのさびしい影が ひとりあるいてゆきます。よっぴて歩いていたらしく、気のせいか、足をひきずるようにしているのです、なにか、たまらないきもちで うしろから、『こうちゃん』とよびかけると、私の胸むねにとびこむようにかけてきて、なきじゃくっていうのでした。

『だって あんまり じょうづにしゃべるんだもの。ぼくなにも云えなかったんだ。』

こうちゃん、それでも わたしたちは まだちからを出して 地にひざまづき、あかるくもえる炎の小花をつまねばならぬのではないだろうかと、あの濡れた 霧のよあけ、泣きじゃくるあなたのあたたかさをみにかんじながら、私には、はっきりと そう思えたのでした。」

追悼特集 須賀敦子〜霧のむこうに(KAWADE夢ムック 文藝別冊1998年)(p.59-60)

2007/03/18

「慰安婦」だった私

『文玉珠(ムンオクチュ) ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(1996年 梨の木舎) 

語り:文玉珠  
構成と解説:森川万智子

***********************************************
『まえがき』に、森川さんは次のように書いています。

「・・・ある雑誌に載った記事を読んだ私は、思わず声を上げてしまいました。ムン・オクチュさんが「ビルマで軍事郵便貯金をしていた。その貯金の本社は下関郵便局だった」と語っていたからです。私はその下関郵便局で十六年間働いていたことがあり、元日本兵への軍事郵便貯金支払いに携わった経験もあったのです。・・・。
・・・防衛庁戦史室が編纂した『戦史叢書』のビルマ関連の数冊をめくってみると、ムン・オクチュさんが話したのとまったく同じに楯師団が転戦している記述に出会い、驚いてしまいました。でも、そこには慰安婦は一人も登場していませんでした。これは私が書くしかないと思いました。一九九三年九月、大邸に行って彼女にそのことを申し出ました。・・・。
・・・それから二年余りテープレコーダーをまわしては少しずつ書き進めたのが本書です。」

そんな前書きから始まり、ムン・オクチュさんの語り、森川さんによる解説、年表、参考文献、資料、あとがきで、全212ページの本となっています。

28ページの『憲兵に呼び止められて』という小見出し以下の部分には、「翌朝、わたしと少女は大邸駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引き渡された。どこに連れて行かれるのかわからなかったが・・・釜山の方向ではなく、北に向かっていることはわかった。途中、食事をするときも、洗面所に行くときも、二人はわたしたちについてきて監視していた。・・・」

そして、30ページの『慰安婦にさせられた、オクチュ16歳』(小見出し)以下には、「わたしたち二人も男の相手をしなければならなくなった。毎日泣いた。泣いても泣いても男はきた。毎日二十人から三十人ほどの日本人の兵隊がきた。客は日本の兵隊や憲兵たちだけだった。・・・・。軍人たちは切符をもってきた。切符の値段がいくらだったのかはわからない。赤い線が二本、ななめにはいっている切符で、四角い判子が押してあった。それを貯めておくと、一週間に一度、軍人が記録しにきた。朝鮮に帰ったら金を払うからといわれていたので、わたしは一生懸命切符を貯めた。・・・・。軍医が一週間に一度きて性病検査をした。病気にならないために受けなさい、と説明されたので、恥ずかしい検査だったけれどすすんで受けた。・・・・。十人中五、六人は具合が悪く、三日から一週間ほどは休まなければならなかった。病気だという印は医者からもらう木札で、それには赤い字で「立入禁止」と書かれていた。・・・・。月経のときさえ休むことはできなかった。吸水力のよい脱脂綿を膣に詰めて客をとった。終わった後は大急ぎで洗浄して、また綿を詰めた。消毒液を使って、私はきれいに洗浄した。・・・・。」

「・・・そうこうしているうちに、わたしは慰安婦の生活に慣れてきた。軍人たちは、こちらがやさしく接すれば、やさしくしてくれることがわかった。日本の歌をうたえば喜ぶ軍人が多いことも知った。・・・」(p.34)

オクチュさんは、マンダレーでの話も語っています。「わたしたちは、「タテ(楯)八四〇〇部隊」と呼ぶ部隊に所属することになった。慰安所は、大邸からきたわたしたちがいるというところから大邸館と名づけられた。「軍人軍属以外は立ち入り禁止」ということだった。・・・・。その当時、朝鮮には、創氏改名という制度があって、わたしたちは朝鮮の名前を捨てて日本姓をつけなければならなかった。わたしの姓名はフミハラギョクシュ(文原玉珠)だった。それで、大邸館でのわたしの名前はフミハラヨシコ(文原吉子)ということになった。・・・・。」(p.57-58)

「所帯持ちの兵隊たちもかわいそうだった。いつも妻や子供のことを思い出しているようだった。・・・・。ここにきたからには、妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かなければならない、と。わたしはその人たちの心持がわかるから、一丁懸命に慰めて、それを紛らわしてあげるような話をしたものだった。」(p.63)

慰安婦たちまでも、最前線のアキャブまで連れて行かれました。

「そのような移動の途中、友達が川に身を投げた。つらかったのだ。おとなしくてあまり目立たない娘だった。名前をどうしても思い出せない。「処女供出」といって、警察がきて、かならず娘を出さなければならないことがあったが、天井裏に隠れていたところを引っ張られてきた姉妹の、妹のほうだった。・・・・。遺体を川岸に引き上げ、みんなでガソリンをかけて焼いた。姉が狂ったように泣いた。わたしたちもみんな泣いた。姉も妹もかわいそうだたし、それに友達を死なせてしまったのが悔しかった。・・・・。」(p.81)

「アラカン山脈を越えて、海に出たころだったろう。途中、何度かタテ師団の中隊や小隊に出会った。・・・・。もう顔馴染みになっていたので、軍人たちは歓喜し、わたしたちも出会いを喜んだ。そうすると、きまって「ここでも慰安していってよ」と頼んでくる。引率の下士官が、「自分たちは何日までにアキャブに到着しなければならないから」といって断ろうとすると、「では許可を得ればいいだろう」といって、無線で師団司令部に許可を申請する。司令部はそういう依頼にはすぐに許可をだした。その周辺にある民家が急ごしらえの慰安所になった。筵(むしろ)で仕切りをしただけの慰安所だった。・・・・。」(p.87-88)

「世の中というものは、ひっくり返ることがあるのだ。ある日突然立場が逆転すると、こんな風に人間の関係も変わってしまう。それがわたしには悲しかった。それまで「日本は世界でいちばん強いのだ。日本人はいちばん上等な人間なのだ」といっていた軍人たちが、国が負けたら小さくなってしまっている。情けなかろう、と思うとまた泣けてきた。そのときのわたしは、まだ日本人の心を持っていたのかもしれない。そういうなかで、位の低い兵隊は死なないけれど、中尉が大尉などえらい将校が何人も自殺していった。「また中尉が割腹自殺した」などという話を何度も聞いた。」(p.143)

************************************************
声なき声を、言葉や映像にして記録し、今もなお、私たちに伝え続けている森川さんの心ある行動力や地道な作業や活動に感謝。並大抵の人にできることではない。

日本政府関係者は、この本を読んだらどのような反応をするのだろう。きっと「朝鮮人の女が金が欲しいがために、うそを語って作られた本だ」と言うのだろう。でも、そんな言い草は、今の国際社会の中では、通用するものではないと思う。

今でも、巨額の軍事郵便貯金が存在するという。慰安婦だった人たちは、多額な軍事貯金を引き出せないでいる。多くの人たちは引き出せないまま亡くなっている。その人たちの積み立てたお金は、今、どこで、誰にどう扱われているのだろう。

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プロフィール

るるど

Author:るるど
お面には作者の心が表れると言われているそうです。「このお面、多国籍だね」と言われ、「そういえば、一つの文化に属しきれない自分がいるなぁ」と改めて気づかされました。(見かけは、似ていません)

好きな言葉:"Differences are not a threat, but a treasure" by Jean Vanier (ジャン・バニエは、尊敬する人の一人です)

email: mariaatlourdes@hotmail.com

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