るるどの覚書

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2007/03/18

「慰安婦」だった私

『文玉珠(ムンオクチュ) ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(1996年 梨の木舎) 

語り:文玉珠  
構成と解説:森川万智子

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『まえがき』に、森川さんは次のように書いています。

「・・・ある雑誌に載った記事を読んだ私は、思わず声を上げてしまいました。ムン・オクチュさんが「ビルマで軍事郵便貯金をしていた。その貯金の本社は下関郵便局だった」と語っていたからです。私はその下関郵便局で十六年間働いていたことがあり、元日本兵への軍事郵便貯金支払いに携わった経験もあったのです。・・・。
・・・防衛庁戦史室が編纂した『戦史叢書』のビルマ関連の数冊をめくってみると、ムン・オクチュさんが話したのとまったく同じに楯師団が転戦している記述に出会い、驚いてしまいました。でも、そこには慰安婦は一人も登場していませんでした。これは私が書くしかないと思いました。一九九三年九月、大邸に行って彼女にそのことを申し出ました。・・・。
・・・それから二年余りテープレコーダーをまわしては少しずつ書き進めたのが本書です。」

そんな前書きから始まり、ムン・オクチュさんの語り、森川さんによる解説、年表、参考文献、資料、あとがきで、全212ページの本となっています。

28ページの『憲兵に呼び止められて』という小見出し以下の部分には、「翌朝、わたしと少女は大邸駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引き渡された。どこに連れて行かれるのかわからなかったが・・・釜山の方向ではなく、北に向かっていることはわかった。途中、食事をするときも、洗面所に行くときも、二人はわたしたちについてきて監視していた。・・・」

そして、30ページの『慰安婦にさせられた、オクチュ16歳』(小見出し)以下には、「わたしたち二人も男の相手をしなければならなくなった。毎日泣いた。泣いても泣いても男はきた。毎日二十人から三十人ほどの日本人の兵隊がきた。客は日本の兵隊や憲兵たちだけだった。・・・・。軍人たちは切符をもってきた。切符の値段がいくらだったのかはわからない。赤い線が二本、ななめにはいっている切符で、四角い判子が押してあった。それを貯めておくと、一週間に一度、軍人が記録しにきた。朝鮮に帰ったら金を払うからといわれていたので、わたしは一生懸命切符を貯めた。・・・・。軍医が一週間に一度きて性病検査をした。病気にならないために受けなさい、と説明されたので、恥ずかしい検査だったけれどすすんで受けた。・・・・。十人中五、六人は具合が悪く、三日から一週間ほどは休まなければならなかった。病気だという印は医者からもらう木札で、それには赤い字で「立入禁止」と書かれていた。・・・・。月経のときさえ休むことはできなかった。吸水力のよい脱脂綿を膣に詰めて客をとった。終わった後は大急ぎで洗浄して、また綿を詰めた。消毒液を使って、私はきれいに洗浄した。・・・・。」

「・・・そうこうしているうちに、わたしは慰安婦の生活に慣れてきた。軍人たちは、こちらがやさしく接すれば、やさしくしてくれることがわかった。日本の歌をうたえば喜ぶ軍人が多いことも知った。・・・」(p.34)

オクチュさんは、マンダレーでの話も語っています。「わたしたちは、「タテ(楯)八四〇〇部隊」と呼ぶ部隊に所属することになった。慰安所は、大邸からきたわたしたちがいるというところから大邸館と名づけられた。「軍人軍属以外は立ち入り禁止」ということだった。・・・・。その当時、朝鮮には、創氏改名という制度があって、わたしたちは朝鮮の名前を捨てて日本姓をつけなければならなかった。わたしの姓名はフミハラギョクシュ(文原玉珠)だった。それで、大邸館でのわたしの名前はフミハラヨシコ(文原吉子)ということになった。・・・・。」(p.57-58)

「所帯持ちの兵隊たちもかわいそうだった。いつも妻や子供のことを思い出しているようだった。・・・・。ここにきたからには、妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かなければならない、と。わたしはその人たちの心持がわかるから、一丁懸命に慰めて、それを紛らわしてあげるような話をしたものだった。」(p.63)

慰安婦たちまでも、最前線のアキャブまで連れて行かれました。

「そのような移動の途中、友達が川に身を投げた。つらかったのだ。おとなしくてあまり目立たない娘だった。名前をどうしても思い出せない。「処女供出」といって、警察がきて、かならず娘を出さなければならないことがあったが、天井裏に隠れていたところを引っ張られてきた姉妹の、妹のほうだった。・・・・。遺体を川岸に引き上げ、みんなでガソリンをかけて焼いた。姉が狂ったように泣いた。わたしたちもみんな泣いた。姉も妹もかわいそうだたし、それに友達を死なせてしまったのが悔しかった。・・・・。」(p.81)

「アラカン山脈を越えて、海に出たころだったろう。途中、何度かタテ師団の中隊や小隊に出会った。・・・・。もう顔馴染みになっていたので、軍人たちは歓喜し、わたしたちも出会いを喜んだ。そうすると、きまって「ここでも慰安していってよ」と頼んでくる。引率の下士官が、「自分たちは何日までにアキャブに到着しなければならないから」といって断ろうとすると、「では許可を得ればいいだろう」といって、無線で師団司令部に許可を申請する。司令部はそういう依頼にはすぐに許可をだした。その周辺にある民家が急ごしらえの慰安所になった。筵(むしろ)で仕切りをしただけの慰安所だった。・・・・。」(p.87-88)

「世の中というものは、ひっくり返ることがあるのだ。ある日突然立場が逆転すると、こんな風に人間の関係も変わってしまう。それがわたしには悲しかった。それまで「日本は世界でいちばん強いのだ。日本人はいちばん上等な人間なのだ」といっていた軍人たちが、国が負けたら小さくなってしまっている。情けなかろう、と思うとまた泣けてきた。そのときのわたしは、まだ日本人の心を持っていたのかもしれない。そういうなかで、位の低い兵隊は死なないけれど、中尉が大尉などえらい将校が何人も自殺していった。「また中尉が割腹自殺した」などという話を何度も聞いた。」(p.143)

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声なき声を、言葉や映像にして記録し、今もなお、私たちに伝え続けている森川さんの心ある行動力や地道な作業や活動に感謝。並大抵の人にできることではない。

日本政府関係者は、この本を読んだらどのような反応をするのだろう。きっと「朝鮮人の女が金が欲しいがために、うそを語って作られた本だ」と言うのだろう。でも、そんな言い草は、今の国際社会の中では、通用するものではないと思う。

今でも、巨額の軍事郵便貯金が存在するという。慰安婦だった人たちは、多額な軍事貯金を引き出せないでいる。多くの人たちは引き出せないまま亡くなっている。その人たちの積み立てたお金は、今、どこで、誰にどう扱われているのだろう。
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