るるどの覚書

全く私的な独り言から、素朴な疑問や社会的な関心ごとまで、北欧での生活の中で感じたり、思ったり、考えたことの覚書ブログ。気軽にコメントして下さると嬉しいです。

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2007/01/31

『獄中記』

10日くらい前に書店で見つけた佐藤優氏(著)の『獄中記』を読んでいます。

とても読みやすい文章で、footnotesもとても効果的に使われており、footnotesが記されていても、いつもはほとんど読まない私まで、一つ一つ丁寧に見てしまいます。こんなにも熱中させてくれる本に出会ったのは久しぶりです。

国体維持に命をかける彼の価値観や生き方には個人的には賛成できないけれど、彼の知や神に対する求道心には頭が下がる。

『獄中記』を読んでいたら、獄中日記を書いた金子文子さんのことを思い出しました。

金子文子さん、佐藤優氏、二人とも自分の命よりも大切な“何か”を持っている(いた)ような気がする・・・。

**************************
以下、「金子文子の生き方」より転載させていただきました。

http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/kanekofumikojitentext.html

金子文子 1903.1.25-1926.7.23
出生地、神奈川県横浜市、町名番地不詳。

本籍、山梨県東山梨郡諏訪村大字下杣口番地不詳。

父親が家庭を顧みず、母以外との女性関係を幼い頃から見せつけられた。

文子の出生は届けられず、無籍のため当初は小学校に入学できず。

父は家を出、義妹と同居、母は男と同棲という家庭環境のもと横浜で育つ。

8歳の秋、母の再婚先、山梨北都留郡に移り、そこから叔父に引き取られ母の実家で暮らす。

母はまた他家に嫁ぎ、文子は「父には逃げられ、母には捨てられる」と自覚し

「子供ながらに考えても判らない自分の身の上に嘆き呪う」と調書で述べる。

9歳の秋、父の妹の結婚先朝鮮忠清北道芙江の岩下家に引き取られ養子となる。

父方の祖母は無籍者や私生子を引き取れないという理由で、

文子を母方の祖父母の五女として入籍させる。

朝鮮でも無理解な待遇を受け続け自殺を考える。

予審では1919年の独立運動の光景を目撃して

「私にすら権力への叛逆気分が起こり他人事と思えぬほどの感激が胸に湧く」

と述べ、朝鮮人のおかれた立場を自らの境遇と重ねていた。

16歳母の郷里山梨県に帰されたが母はそれ迄に四、五度縁付いて巡り、

当時も蚕種問屋に嫁いでいた。

「家の無い私は数日ずつ付近の親類方を彷徨った」と回想。

実父により母の弟に嫁がせられようとするが、

それを避ける事もあり1920年4月、17歳、単独で上京する。



下谷区三ノ輪町洋服商の母方の大叔父宅に居たが

上野の新聞売り捌き店に入って夕刊販売を始め社会主義者と出会う。

正則英語学校と研数学館に通う。

学校は3ヶ月で退学するがその間、新山初代と知り合い、

社会主義やロシアナロードニキを描いた本を借り、

大きな影響を受ける。1920年7月末頃本郷区湯島に間借り、

粉石鹸の夜店を出す。同年末浅草で女中奉公。

本郷区追分町、社会主義者堀清俊方に住み込み印刷屋の活字拾いをして

生活の苦闘を続ける、堺利彦の著書や雑誌を読む。

1921年夏頃、朝鮮の社会主義者たちと知り合う。

1921年11月、有楽町の社会主義者の集まる「岩崎おでん屋」に女給として入る。

1922年3月「無資産にして無名の一鮮人」朴烈と相知り、5月同棲を始める。

文子も朝鮮人の社会主義者の思想研究会である黒濤会に加入。

会は1922年9月共産主義者とアナキズム派に分裂。

朴烈が主となり洪鎮裕、朴興坤、申焔波、徐相一、張祥重らと黒友会を組織。

機関誌として『民衆運動』を発行。

金重漢、新山初代、栗原一男、らと文子も相次いで加入。

11月頃文子と朴とは『太い鮮人』を発行。

翌1923年4月朴と相談してアナキズムに疎遠な人を集め不逞社を組織、

3月から住んでいた東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474番地の借家を集りの場とする。

5月27日頃に第一回例会を開く。

文子は「不逞社は権力に対して叛逆する虚無主義や無政府主義を抱いて居る者の集まり」

であったと供述。

機関誌『太い鮮人』『現社会』発行。文子も執筆する。

6月には望月桂や加藤一夫の講演会、中西伊之助の出獄歓迎会を開催。

朴烈は以前から文子以外の同志には内密に進めていた爆弾の入手を巡り、

同志金重漢との関係がこの頃から悪くなる。

8月の例会では喧嘩騒ぎになる。

黒友会の解散も同時期に課題になり、

新山と金は独自の雑誌を発行し8月下旬の大杉栄が呼びかけた

「アナキストの連合」の会議に参加するが

文子や朴烈は欠席し全く別の行動をとるようになっていた。

関東大震災後の9月3日、代々木の不逞社から保護検束という名目で

文子は朴烈と共に警察に連行される。

続けて他の同志たちも検挙される。

治安警察法違反から、使用目的が具体化していなかった

爆弾入手の意図が拡大解釈され文子は刑法73条で朴烈と共に起訴される。

「天皇は病人ですから…それで坊ちゃんを狙ったのです」

と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述しているが、

具体性は無かった。

1926年3月25日、朴烈と共に大審院により死刑判決。

4月5日恩赦による減刑で無期懲役。

文子は栃木刑務所にて服役するが、筆記や読書制限という弾圧を受ける。

1926年7月23日、獄死する。刑務所の発表は縊死。

死因に疑問をもった布施弁護士や同志は母親と共に刑務所の墓地に向かい発掘するが、

死に至る経緯は不明。

同志による文子の遺骨保管に関連し警視庁は母親と同志たちを半日検束する。

検束された栗原一夫と椋本運雄はそのまま朝鮮に送還され

真友連盟事件の治安維持法でフレームアップ弾圧を受ける。

朝鮮から朴烈の兄が息子と共に遺骨を引き取りに来るが

直接渡さず朝鮮の警察署に送るという、死んでもなお文子は管理され弾圧は続いた。

兄は朴烈の故郷の山奥に遺骨を埋葬、土盛だけであった。

1970年代に当時の朝鮮の同志たちが募金を集め、大きな碑を建立。

朝鮮の人々と連帯し日帝と闘った文子の生き方を碑文に残す。

文子は獄中で自伝を著す。また歌を詠み始める。

栗原は不逞社の件では予審の後免訴になり、

獄外から文子への救援を続けていた。保管していた原稿をまとめ、

歌集と自伝が刊行された。歌集は発禁処分。

著作、歌集『獄窓に想ふ』1927年1月発行、自我人社刊。

『何が私をかふさせたか』1931年7月発行、春秋社刊、栗原一夫編集。


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Comment

るるどさん、おひさしぶりです。
正月から少しずつ復活してましたが
何かきっかけがつかめず、読ませて貰ってばかりいました。これからもよろしくです。

「朴烈事件」ですね。学生の頃読んだ記憶があります。
警察の陰謀か、文子を取調室で膝に乗せているのを写真に取られたとか断片的に記憶があります。また読んでみます。

金子文子

CONSAMAさま

コメントありがとう!
こちらこそどうぞよろしく。

彼女の作品については無知なのですが、痛々しい彼女の人生や彼女の残した言葉にはなんとなく惹かれるところがあり、是非作品を読んでみたいと思いつつ今日に至っています。

獄中記

るるどさん
はじめまして。以前、獄中記の感想にコメントをいただいたsnoozer-05と申します。
改めまして、ぼくのつたない感想にコメント下さり、ありがとうございました。
金子文子さんという方については僕は全然知りませんでしたが、るるどさんの記事を読んで、ちょっと勉強してみようと思いました。体調を崩されているようですが、どうぞお体を大切に、ご自愛ください。
ではでは。

こちらこそ、ありがとう

snoozer-05さん

コメントどうもありがとうございます。

獄中で書かれた書には、他に見られない真剣さや迫力があると感じますね。

お気遣いの言葉、どうもありがとう!

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