るるどの覚書

全く私的な独り言から、素朴な疑問や社会的な関心ごとまで、北欧での生活の中で感じたり、思ったり、考えたことの覚書ブログ。気軽にコメントして下さると嬉しいです。

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2007/01/31

『獄中記』

10日くらい前に書店で見つけた佐藤優氏(著)の『獄中記』を読んでいます。

とても読みやすい文章で、footnotesもとても効果的に使われており、footnotesが記されていても、いつもはほとんど読まない私まで、一つ一つ丁寧に見てしまいます。こんなにも熱中させてくれる本に出会ったのは久しぶりです。

国体維持に命をかける彼の価値観や生き方には個人的には賛成できないけれど、彼の知や神に対する求道心には頭が下がる。

『獄中記』を読んでいたら、獄中日記を書いた金子文子さんのことを思い出しました。

金子文子さん、佐藤優氏、二人とも自分の命よりも大切な“何か”を持っている(いた)ような気がする・・・。

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以下、「金子文子の生き方」より転載させていただきました。

http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/kanekofumikojitentext.html

金子文子 1903.1.25-1926.7.23
出生地、神奈川県横浜市、町名番地不詳。

本籍、山梨県東山梨郡諏訪村大字下杣口番地不詳。

父親が家庭を顧みず、母以外との女性関係を幼い頃から見せつけられた。

文子の出生は届けられず、無籍のため当初は小学校に入学できず。

父は家を出、義妹と同居、母は男と同棲という家庭環境のもと横浜で育つ。

8歳の秋、母の再婚先、山梨北都留郡に移り、そこから叔父に引き取られ母の実家で暮らす。

母はまた他家に嫁ぎ、文子は「父には逃げられ、母には捨てられる」と自覚し

「子供ながらに考えても判らない自分の身の上に嘆き呪う」と調書で述べる。

9歳の秋、父の妹の結婚先朝鮮忠清北道芙江の岩下家に引き取られ養子となる。

父方の祖母は無籍者や私生子を引き取れないという理由で、

文子を母方の祖父母の五女として入籍させる。

朝鮮でも無理解な待遇を受け続け自殺を考える。

予審では1919年の独立運動の光景を目撃して

「私にすら権力への叛逆気分が起こり他人事と思えぬほどの感激が胸に湧く」

と述べ、朝鮮人のおかれた立場を自らの境遇と重ねていた。

16歳母の郷里山梨県に帰されたが母はそれ迄に四、五度縁付いて巡り、

当時も蚕種問屋に嫁いでいた。

「家の無い私は数日ずつ付近の親類方を彷徨った」と回想。

実父により母の弟に嫁がせられようとするが、

それを避ける事もあり1920年4月、17歳、単独で上京する。



下谷区三ノ輪町洋服商の母方の大叔父宅に居たが

上野の新聞売り捌き店に入って夕刊販売を始め社会主義者と出会う。

正則英語学校と研数学館に通う。

学校は3ヶ月で退学するがその間、新山初代と知り合い、

社会主義やロシアナロードニキを描いた本を借り、

大きな影響を受ける。1920年7月末頃本郷区湯島に間借り、

粉石鹸の夜店を出す。同年末浅草で女中奉公。

本郷区追分町、社会主義者堀清俊方に住み込み印刷屋の活字拾いをして

生活の苦闘を続ける、堺利彦の著書や雑誌を読む。

1921年夏頃、朝鮮の社会主義者たちと知り合う。

1921年11月、有楽町の社会主義者の集まる「岩崎おでん屋」に女給として入る。

1922年3月「無資産にして無名の一鮮人」朴烈と相知り、5月同棲を始める。

文子も朝鮮人の社会主義者の思想研究会である黒濤会に加入。

会は1922年9月共産主義者とアナキズム派に分裂。

朴烈が主となり洪鎮裕、朴興坤、申焔波、徐相一、張祥重らと黒友会を組織。

機関誌として『民衆運動』を発行。

金重漢、新山初代、栗原一男、らと文子も相次いで加入。

11月頃文子と朴とは『太い鮮人』を発行。

翌1923年4月朴と相談してアナキズムに疎遠な人を集め不逞社を組織、

3月から住んでいた東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474番地の借家を集りの場とする。

5月27日頃に第一回例会を開く。

文子は「不逞社は権力に対して叛逆する虚無主義や無政府主義を抱いて居る者の集まり」

であったと供述。

機関誌『太い鮮人』『現社会』発行。文子も執筆する。

6月には望月桂や加藤一夫の講演会、中西伊之助の出獄歓迎会を開催。

朴烈は以前から文子以外の同志には内密に進めていた爆弾の入手を巡り、

同志金重漢との関係がこの頃から悪くなる。

8月の例会では喧嘩騒ぎになる。

黒友会の解散も同時期に課題になり、

新山と金は独自の雑誌を発行し8月下旬の大杉栄が呼びかけた

「アナキストの連合」の会議に参加するが

文子や朴烈は欠席し全く別の行動をとるようになっていた。

関東大震災後の9月3日、代々木の不逞社から保護検束という名目で

文子は朴烈と共に警察に連行される。

続けて他の同志たちも検挙される。

治安警察法違反から、使用目的が具体化していなかった

爆弾入手の意図が拡大解釈され文子は刑法73条で朴烈と共に起訴される。

「天皇は病人ですから…それで坊ちゃんを狙ったのです」

と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述しているが、

具体性は無かった。

1926年3月25日、朴烈と共に大審院により死刑判決。

4月5日恩赦による減刑で無期懲役。

文子は栃木刑務所にて服役するが、筆記や読書制限という弾圧を受ける。

1926年7月23日、獄死する。刑務所の発表は縊死。

死因に疑問をもった布施弁護士や同志は母親と共に刑務所の墓地に向かい発掘するが、

死に至る経緯は不明。

同志による文子の遺骨保管に関連し警視庁は母親と同志たちを半日検束する。

検束された栗原一夫と椋本運雄はそのまま朝鮮に送還され

真友連盟事件の治安維持法でフレームアップ弾圧を受ける。

朝鮮から朴烈の兄が息子と共に遺骨を引き取りに来るが

直接渡さず朝鮮の警察署に送るという、死んでもなお文子は管理され弾圧は続いた。

兄は朴烈の故郷の山奥に遺骨を埋葬、土盛だけであった。

1970年代に当時の朝鮮の同志たちが募金を集め、大きな碑を建立。

朝鮮の人々と連帯し日帝と闘った文子の生き方を碑文に残す。

文子は獄中で自伝を著す。また歌を詠み始める。

栗原は不逞社の件では予審の後免訴になり、

獄外から文子への救援を続けていた。保管していた原稿をまとめ、

歌集と自伝が刊行された。歌集は発禁処分。

著作、歌集『獄窓に想ふ』1927年1月発行、自我人社刊。

『何が私をかふさせたか』1931年7月発行、春秋社刊、栗原一夫編集。


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2007/01/29

Japanese women are baby-making machines!?

It is unfortunate that some male politicians in this country have no respect for women. It is a pitiful reality of Japan. No wonder why Japan's birth rate is low.
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BBC NEWS Jan. 27, 2007 Japan women called child machines

Japanese children are fewer and further between
Japan's health minister has referred to women as "birth-giving machines" in a speech to a local political meeting.
Hakuo Yanagisawa called for women to do their best to bear children in order to counter Japan's plummeting birth rate and rapidly ageing population.
"Because the number of birth-giving machines and devices is fixed, all we can ask for is for them to do their best per head," he said.
He added: "Although it may not be so appropriate to call them machines."
Recent figures show that Japanese fertility fell to an average of just 1.26 children per woman in 2005.
Last year saw a slight rise for the first time in six years, but the country still faces a long-term trend that may see a 30% drop in the population in the next 50 years.
A rate of 2.1 is needed to maintain population levels.
Japan has the world's highest ratio of elderly to young people.
The trend raises serious concerns about the country's future economic growth and how it can fund its pensions.
Prime Minister Shinzo Abe has pledged to bring in policies that will tackle the falling birth rate.
His recent draft budget sought to increase support for child-care services.
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女性は「産む機械、装置」 松江市で柳沢厚労相
 柳沢伯夫厚生労働相は27日、松江市で開かれた自民県議の決起集会で、「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と女性を機械に例えて少子化問題を解説した。

 柳沢氏は「これからの年金・福祉・医療の展望について」と題し約30分間講演。出生率の低下に言及し「機械って言っちゃ申し訳ないけど」「機械って言ってごめんなさいね」との言葉を挟みながら、「15-50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と述べた。

 厚労省は昨年12月、人口推計を下方修正。この時、柳沢氏は「子どもを持ちたいという若い人たちは多い。その希望に応えられるよう、できる限りの努力をしていきたい」と話していた。

(共同)
(2007年01月27日 20時54分)

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The comment like the above does not encourage women to have babies.

Thinking about women and babies reminded me of a woman who had 15 babies in my town. She is a friend of my grandma.

When people talk about her, they talk a lot about her husband and family.

"She was healthy. (I assume that her husband was healthy, too.)
She had a rich husband. (This implies her whole family was financially well-off.)
Her husband loved children.
Her husband was a loving and caring person.
Her husband was a thoughtful person.
Her husband was a hard working businessman
Her husband taught children at home.
Her family was a landowner.
Her family members including relatives were helpful to each other..."

I hope that politicians of this country would stop thinking that it is the women's solo responsibility to rise the birth rate of this country.

2007/01/26

米イラン戦争が始まりませんように

「ダボスで開かれている世界経済フォーラムに出席したムサ・アラブ連盟事務総長は記者団に対し、米国のイラン攻撃の可能性は五分五分であると言った。これは凄い事だ。攻撃があるといっているようなものだ。チェイニー副大統領が訪日するというニュースが小さく報じられた。これはイラン攻撃に協力しろと命令する為の訪日だ。」と天木さんがブログに書かれていた。

テヘランには、今は音信不通になっているKoorosh F.氏というイラン人の知人がいる。詩が大好きで、ペルシア語の詩の話をよくしてくれた。イスラム教の原理主義的な捉え方については、納得できないことばかりだといいながら、イランの社会には収まりきれないその彼は世界中を旅していた。なぜか、彼と話すといつも神様の話になっていた。“God does not exist. Do you think God exists?Do you believe in God?”と問う彼に、私はいつも“Yes”と言っていた。対立していた互いの主張を持っていたけれど、神様の話や信仰の話や私の行ったことのない世界の話はとても楽しかった。最後に会った時、小さな金の十字架のネックレスをくれた。いつも感じていたけれど、彼は神様を信じていないと言いつつも、心の中では信じていた、信じたかったのだと思う。2000年頃、イランに戻るという手紙が、当時ロンドンにいた彼から届いた。その頃、中東の人たちが欧州での生活を続けにくくなっていた状況があったのだと思う。

数年前、彼のイランの住所に宛てて、クリスマスカードを送った。カードには「米国がイランを攻撃しませんように。イランが平和でありますように」と書いた。イラン人の友人たちと話していても、アメリカ人と話していても、イランと米国間の緊張感が伝わってくると感じることが少なくなかった。二国間の溝は深い…と感じ、以前から、特に、イランの平穏さがとても短命であるような気がしてしかたがなかった。

今年は、アメリカがとうとうイランに攻撃を仕掛ける年になってしまう“かもしれない”と思うだけで、とても気持ちが重くなる。涙で心の中が洪水になってしまいそう。その水が冷えて、凍りつかないうちに、表現しないと、心の中は、がちがちでなかなか溶けない氷でいっぱいの氷冷室になってしまいそう。

イランへの攻撃は、なんとしてでも阻止してください。「神様はいないよ」と意地を張って言っていた彼の言葉が正しいかもしれないなんて思いたくないから・・・。

2007/01/25

タクシー

20070125025820


先日は、終電に乗り遅れ、途中から、タクシーで帰宅しました。
もう朝1時を過ぎているというのに、タクシーを待つ長い行列(写真)。結局、順番がやっとまわって来た頃には、数時間後の朝3時半過ぎになっていました。寒かったぁ…。(タクシーに乗って職場から、帰宅するような、恵まれた身分ではないのだけれど。先日のような場合は、タクシーの運転手さんへの貢献だと自分に言い聞かせて、乗ります…。次の朝まで、始発の電車を待つのも辛いですし…。)

その夜は、あまり現金を持ち合わせていませんでした。でも、家に着けばお金はあるんだから、家の前でタクシーの運転手さんに待っていてもらい、現金を取りにいき、ちゃんと支払えば、問題は全くないと思っていたので、お金を持ち合わせていないことは気にしていませんでした。

タクシーに乗り、たわいない世間話をしたり、世の中の景気のお話をしたり、いろんなお客さんの話を聞かせてもらったりしていた時、「お金あるんですけど、手持ちのお金では足りないと思うので、家の前で待っていてもらえますか。すぐ取ってきますから」と伝えました。そしたら、ちょっと運転手さんを不安にさせてしまったようでした。「乗る前にそのことを伝えたら、乗せてくれる運転手さん探すの大変だったかもね。以前、現金が無いと言って、2,3台のタクシーに断られていたお客さんがいたよ。俺はそのお客さんを家まで乗せてあげたけどね」と言っていました。そんなこと考えてもいなかった私は、「すみません。お金が無いこと、乗る前に伝えることだったんですね、すみませんでした。払わないなんて考えもいなかったので・・・」と謝りました。

不払いのお客さんのお話、乗り逃げするお客さんのお話、酔っ払いのお客さんのお話、などいろいろ聞かせてもらいました。乗り逃げされた場合、すぐに警察に届けを出して、不払いの料金は会社と折半だそうです。でも、実際は、運転手が自腹で払い、会社に請求しないケースがほとんどだとのことです。運転手さんも大変です・・・。

家に到着後、すぐに現金を取りに家の中へ直行しました。そして、お金の持ち合わせていない私を乗せてくれた運転手さんへのお礼にと、食器棚の中にあるクッキーと冷蔵庫にたまたまあった缶コーヒー(ビールにしようかなとも思ったけれど、運転中にアルコールは良くないなと思い、やめました)を手にして運転手さんのところへ戻りました。

真夜中の運転、ごくろうさまです。

2007/01/25

着物 KIMONO

20070125025719


昨年から、和裁の本を探していました。でも、いろんな本屋さんに行ったけれど、着物のリフォームや着付けに関する本ばかりで、和裁の本をみつけることができませんでした。

志村ふくみさんと鶴見和子さんが書かれている着物についての本を何冊か読んだあとは、もっともっと着物の作り方について知りたくなってしまい、先日、本屋さんではなく、裁縫などの素材を扱っているお店へと行ってきました。そこで、「和裁の本はありますか」とたずねると、若い店員さんは「クラフト」の本が置いてあるところを指しました…。

一瞬、びっくり。

「和裁=クラフト」なんですかぁ????!!!!!(違うよ~洋裁は洋服をつくることで、和裁は着物をつくること…日本語が下手(特に、語彙が少ない)だと、日々馬鹿にされている私でも知っているのに…ショック…)

もう一度、「着物の作り方に関する本ありますか」と言い直しました。

すると、その店員さんは、他の店員さんに聞きに行ってくれました。違う店員さんが来て、「これしかないんですけど」と和裁の本のあるところへ連れて行ってくれました。昨年からの和裁の本探しだったので、「やっと見つかったぁ!」という思いにかられ、2冊買ってしまいました。

その後、帰りの電車を待ちながら、「今、自分で着物をつくろうとする人は、ほとんどいないのかなあ。誰もつくれなくなったらどうなるんだろう。…着物を着る若い人たちが増えてきているとも聞くけれど…つくりたいとは思わないのかなあ(私は着るということよりも、着物を一枚縫ってみたいのです。夢は、糸から、布を織り、その反物で着物を縫うこと・・・夢の夢だなあ・・・)」といろんなことを考えながら、駅のプラットホームに立っていたら上記の皇室の写真が目に留まりました。あれっ?そういえば、皇室の人たちの正装って、ドレスにタキシード?! 天皇は日本の象徴じゃなかったっけ????なんで正装が洋服なの?? 天皇が日本の象徴であるなら、天皇や天皇家の人たちは、日本の美しい着物を着て、現れるべきじゃないのかなあ、と不思議な気持ちになりました。

結局は明治の時代から、日本は近代化という名の下に、西洋の後追いをしつづけているのかなあ。服装、植民地支配、食生活、社会システム、思想、学問など、西洋の後追いばかりのような気がしなくもないなぁ。

日本の象徴であるといわれる人の正装が洋服では、日本の着物が浮かばれない…。

2007/01/23

テレビを見ない日

誰かの家に行って、テレビがついていれば一緒に見るけれど、日常生活の中では、ほとんどテレビを見ない。テレビを見ないで損しているなあと感じることもなければ、残念だなあと思うこともない。

テレビを持つすべての人々が、1週間に1日、いいえ1ヶ月に1日でもいいから、テレビを見ない日を意識的に持ってみたらいいのになあと思う。

その代わりに・・・歩く、自転車に乗る、家で日記を書く、家の庭に種を蒔く、プランターに種を蒔く、友達とお茶やお菓子を持ち寄ってたわいないお話をする、散歩をする、近所の商店街に足を運ぶ、カメラをもって町に出て写真を撮る、公園に行く、市役所や区役所まで行って情報集めをする、ラジオを聴く、お裁縫をする、日曜大工をする、好きなビデオを誰かと一緒に見る、手紙を書く、電話をする、お料理をする、掃除をする、体操をする、水泳をする、庭掃除をする、公共の場の掃除をする、音楽を奏でる、いろんな人たちと表現の場を持つ、ものづくりをする、マラソンをする、近くの農家へ行ってみる、近くの川まで行ってみる、近くの海まで行ってみる、近くの山まで行ってみる、人間のつくったものでないもの(自然)を見て、感じ、ふれることができる場所へ行ってみる。そして、自分の手のひらを眺め、この手はだれがなぜつくったんだろうと考えてみる、心臓の動いている不思議について想像を膨らませてみる、足の指を動かしてみて、一本一本の指の大切さを改めて実感してみる・・・。

テレビを見るかわりに、やれること、できることってたくさんあるのになあ・・・もったいないよ・・・時間が。

2007/01/18

最終電車に乗って‐無関心?!との遭遇

数日前の夜、職場を真夜中近くに出て、終電に乗って帰宅しました。
その夜、帰宅の途中で私はめったに出会わない状況に遭遇しました。

最終電車になんとか駆け込んで、息を整えていると…。大きないびきが聞こえてきました。すごい大きないびきなのです。車両の隅から隅へと響き渡るくらいのいびきです。スーツを着た40代か50代くらいの男性です。立ちながら、いびきをかいていました。その人は酔っていたようで、ふらふらしながら立っていました。

「なぜ、誰も席を譲らないんだろう…。ひどく酔っ払っていて、ふらふらしながら立ち、大きないびきをかきながら寝ているのに…」

「彼の奥さんは大変だろうな。あんな大きないびきをかく人とは一緒に寝られないなあ…」

「奥さんだけじゃなくて、同じ家に住んでいる家族は大変だろうなあ。あんなに大きないびきが聞こえてきたら、みんな寝られないよなあ~」

「誰か席を譲ってあげればいいのになあ、あの人ふらふらしていて、倒れそう…」

といろんなことを勝手に想像したり、考えていたら…。その男性が突然、バタッと倒れました。「…あ~ヤッパリ倒れた…」その瞬間、近くに座っている誰かに「席を譲ってあげたらどうでしょう」と一言、言わなかったことを後悔…。

ちょっと離れていて、よく見えなかったので「倒れても、いびきをかいているようだし、横になっていたほうが、よろよろ立っているより安全かなあ」と考えました。そしたら、目の前に座っていた人たちが数人、鞄の中からちり紙を取り出し、倒れた男性に差し出したのです。「えっ!出血?どこから?」と思っていたら、その男性は切れた頬から流れている血を拭きながら立ち上がりました。

周りの人たちはちり紙は差し出していたのですが・・・座ったままでした。誰も席を譲ろうとはしないのです。とても不思議な光景でした。目の前で、ふらふらして立っている男性が、倒れ、頬を切り、血を流していても、ちり紙を差し出し、何事もないかのように座り続けている人たち。「何で譲らないんだろう」といたたまれない気持ちが募ってきていたので、ちょっと歩いて一言と思っていたら、次の駅に着き、たくさんの人が降り、空席ができました。私はその駅で下車しましたが、その男性は立ったまま乗り続けていました。

後ろ髪を惹かれるような思いを抱きながら、下車し、ボーっとしながらプラットホームを歩いていました。そして、駅の階段を上がろうとして、階段を見上げると、中間点あたりに、今度は、また一人男性が座っています。

50代くらいのスーツを着た男性が、あぐらをかいて座っていました。アタッシュケースから出て、飛び散った物をかき集めている様子でした。その男性をよけながら、たくさんの人たちが階段を上っていっていました。時々「大丈夫ですか?」と声をかけている人がいたようですが、その男性は「大丈夫!大丈夫!」とニコニコして言っていたので、みんなさっと去っていったようです。

私も気になり「大丈夫ですか?」と声をかけました。そうすると「大丈夫!大丈夫!」と笑顔で、景気の良い声で答えていました・・・が、大丈夫でないことは明らかでした。その男性は血だらけなのです。頭を壁に打ったようで、後頭部から出血し、近くの壁には血がついていました。そして、頭から流れ出ている血は首を伝わり、コートに流れてきていました。

そんな姿にびっくりした私は階段を駆け上がって駅員さんに「出血している人がいます!すぐに救急車を呼んでください!」と伝えました。すると周りで「でも、あの人大丈夫って言ってたよ」「大丈夫だってさ」「大丈夫みたいだよね」と言う声がちらほら聞こえてくるのです。駅員さんまで「あ~大丈夫って言ってたあの男性・・・」なんて言っているのです。「大丈夫じゃないんです!大丈夫ではありません!」と言ったら来てくれましたが・・・。

目に見えている出血よりも、「大丈夫」という言葉を鵜呑みにするんですか???ちょっとショックでした。

救急の対応が来るまで一緒にいました。寒かったので私も足ががくがくしていました。もしかすると、人の血をみていたから、足ががくがくしていたのかもしれません。もしかすると、目で見て明らかな様子(多量に出血している人)よりも、「大丈夫」という言葉だけを真に受けて、なにもないかのように立ち去る人たちとの遭遇がちょっとショックでがくがくしていたのかもしれません。

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飛躍した考えだととらえられてしまうかもしれませんが・・・
自分の五感から得られる情報や自分の感じ方よりも、「言葉」を重視していくことに慣れてしまうと、おそろしいことになるような気がします。

ジョージ・オーウェルの『1984年』の世界が、じわじわと私たちの社会に入り込んできている今、それを加速させないためにも、自分の感性や感覚を大切にしたいと思う。

2007/01/11

防衛省に格上げされた防衛庁

2007年1月9日、日本で防衛省の誕生した日。

これからの人生の日々に、水でうすく溶いた灰色の絵の具が、「ばさっぁと」かけられたような気がする。なぜか、気が重い。私の身の回りの生活で、今日、何が変わったということはない。突然、戦いが始まったわけでも、誰かが殺し、殺されたわけでもない。

でも、とても気が重い。

なぜだろう。

日本政府が、何を優先し、何に価値を見出し、どの方向をみているのかが、「防衛省への格上げ」によって、より明らかにされたような気がする。今すぐに、日本が具体的にどこかの国と戦争を始めないとしても、(でも、日本はアメリカの追従国で、そのアメリカは戦争中だから、ある意味で日本も戦争中なんだろう)この資源のない国、日本の限られた資源(財源も含め)が、防衛・軍事にどんどん流れていくことになるんだろう。そのために、日本にいる人々は「いじめ」られ、「我慢」を強いられ、多くの「犠牲になる」ことが、ますます蔓延っていくような気がしてならない。

2007/01/07

30代の脳梗塞・脳出血・心筋梗塞

最近、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞で倒れる30歳代の人たちの話を聞く。

-知り合いの32歳の男性は、社員寮で寝ている間に、心筋梗塞で突然亡くなった。その前の日は、同じ社員寮にいる同僚たちが「飲みにいこうよ」と誘ったらしいけれど、「疲れているから休む」と言った。結局その夜は、みんなが飲みに行かなかったと言う。次の朝、職場に姿を現わさない彼のことが気にかかり、会社の人が彼の部屋へ行ったら冷たくなっていたという。

-幼馴染の友人は30代のはじめに、突然、脳梗塞で倒れた。数年間入院し、退院した。今は、リハビリも中止にされ、片麻痺の体になっている彼にとっては、残存能力のある部位の機能低下が、心配ごとの一つになっている。

-ある32歳の女性は、脳出血である日突然倒れた。彼女は結婚して、子供も一人いた。相手方の親と同居生活だったと言う。子育ての傍ら、フルに仕事もしていた。彼女のお母さんの話を聞いた母は、涙なしでは聞いていられなかったと言う。入院は三ヶ月しかできないといわれ、リハビリも3ヶ月で終わりらしい。現在は、リハビリセンターに週一回通っているけれど、その後どうしたらいいかわからないと悩んでいる。車椅子の生活で、顔面も身体も片麻痺。お姑さんとの関係が相当のストレスだったようで、退院した後は離婚し、実家に子供と一緒に戻ってきた。

病院では、上記の人たちは皆、原因は「過労とストレスです」と言われている。

医師から、「原因は過労とストレスだ」と言われたということを話していると、50才・60才以上の親たちの中には「そんなにストレスがあったのか?昔と比べて、こんなに便利な世の中になって・・・。過労といっても、私たちの世代はもっと大変だったこともある・・・」などと言う人もいる。でも、私は、今の若い人たちの心身は昔の人たち(例えば、今の80代の人たち)よりも、一般的にもろいような気がしてならない。だから、昔の人たちが耐えられた身体的・心理的な負担にも同じようには耐えられないかもしれないし。また、若い人が直面している過労の質やストレスの質も昔のそれとは大分異なっていると思う。

以下、周りを見回して感じられる「人間」という生き物にとって“不自然”で過酷な環境。

添加物が大量に含まれた食品、毒薬と紙一重である農薬をかけられた野菜、抗生物質を使って育てられた動物の肉などを食べ、汚染された大気を吸い、病気になれば、即、抗生物質を与えられながら、成長してきた多くの私たち。採りたての無農薬野菜を食べ、野性的に育てられた動物の肉を食べ、きれいな空気の中で育った祖父母の時代の人たちにくらべて、今の若い人たちの身体は過敏であったり、脆弱だと思う。

個室を与えられ、兄弟姉妹も少なく、多様な人間関係や人びととのゆるやかな距離のとり方を身近なところで学ぶ機会も奪われ、自分以外の受験仲間はみんな競争相手という状況に置かれとても孤独な受験戦争を生き抜いてきた今の30代の人たちも少なくない。多世代が一緒に生活し、15人くらいの大家族が当たり前だった昔に比べて、今当たり前になっている3人家族の中では、成長する過程の中で、身近な場で多様な人間関係を経験するチャンスが得られない。

一途にがんばれば、報われると思っていたら、社会状況は変わっていて、学校で教えられたことやそれまでの常識が社会では通用しない。世の中は、IT時代真っ只中なのに、学校ではまったくコンピューターやキーボードにさえも触れる機会も持たずに、義務教育を終了した人たちも少なくない。世の中の変化が激しく、閉ざされた教育現場での学びとグローバルな競争に犯されている就労社会のギャップが著しい。

(いつもながら)ちょっと、話がずれてしまったけれど・・・。

正社員になれといわれても、自立といわれても、病気になり障害を持った彼・彼女たちは、どうしたらいいのか。

家族が負担をまるがかえし、家族も本人も疲れ果て、絶えるのを、世の中から自分たちには関係ない他人事としてみられ、待たれるだけなのか。

2007/01/05

夢と希望



遠くにあるととても素敵にみえる
近づいてくるとそわそわして、足元が揺らぐ
手の中に入ると消えてしまう

あるようで、ないような、見えるようで、見えないような。
あっても、なくても、どちらでもいいような。

でも、ないと乾ききったモノクロの毎日になっていく。

手も動かない、足も動かない、声も出ない、何も見えない、音も聞こえない、身動きができない。
人々はこんな私が生きていることがかわいそうだと同情する。でも、私は、あなたと同じように、ここに生きている。

私も夢がある。
小さくてもいいから、私の存在がこの世の光になりますように。絶望しか感じ取ることのできない人に希望をもたらすことができますように。

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高校一年生の夏休み、重度心身障害者の施設で寝泊りしながらのボランティアをしました。私の担当した建物には施設の中でも一番重度の障害をもった人たちが生活していました。そこで、上記のような想いを抱くかのような人と出会いました。

声もでない、目も見えない、音も聞こえない・・・動けない、大人なのに赤ちゃんくらいの背格好で、オムツをし、食事も流動食を食べていた、その男性との出会いがなかったら、今、私はここにいなかったかもしれません。思春期真っ只中で、悩み多き私を救ってくれた命の恩人です。生きていく方向性を示してくれた人でもあります。その人は私に何も言いませんでした。その人は私に何もしませんでした。でも、その人は私の目の前で一生懸命に生きていたのです。彼の存在は、どんな人の言葉よりも、どんな人の助けよりも、私に生きる希望を与えてくれました。

夏の終わりには、そこで出会った人々ともお別れでした。その施設を去る前の晩は、電気を消した暗い部屋の中で、畳の上の布団に包まって嗚咽を抑えながら、長い間止まらない涙を布団で拭っていました。みんなと別れるのが悲しくて、悲しくて、心の中で「また、戻ってくるからね。絶対に戻ってくるからね」と繰りかえし言っていました。

あの施設で出会った人たちは、今、どうしているだろう。

2007/01/04

Terra Naomi's "Say It's Possible"

YouTubeを見ていたら、素敵なビデオクリップを発見。

Terra Naomi's NEW Official "Say It's Possible" music video

一見の価値あり。

People from around the world filmed themselves and sent their videos to me. I asked everyone to answer the question "what would you do/want if anything were possible?" in three words or less. THANK YOU to all of you. This project is a true reflection of what we can do together.

Directed by Jonathan Bird and produced by Sam Englebardt and Terra Naomi.

For more information on how this video was created please go here: www.terranaomi.com.

Peace and love to the world in 2007.

love
terra

以上、YouTubeに記載されていたTerraのコメントを抜粋。

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“Say It's Possible”の歌詞

I SEE THE LIGHTS ARE TURNING
AND I LOOK OUTSIDE THE STARS ARE BURNING
THROUGH THIS CHANGING TIME
IT COULD HAVE BEEN ANYTHING WE WANT
IT’S FINE SALVATION WAS JUST A PASSING THOUGHT.

DON’T WAIT ACT NOW
THIS AMAZING OFFER WON’T LAST LONG
IT’S ONLY A CHANCE TO PAVE THE PATH WE’RE ON
I KNOW THERE ARE MORE EXCITING THINGS TO TALK ABOUT
AND IN TIME WE’LL SORT IT OUT

AND THOUGH THEY SAY IT’S POSSIBLE TO ME
I DON’T SEE HOW IT’S PROBABLE
I SEE THE COURSE WE’RE ON
SPINNING FARTHER FROM WHAT I KNOW
I’LL HOLD ON
TELL ME THAT YOU WON’T LET GO
TELL ME THAT YOU WON’T LET GO

AND TRUTH IS SUCH A FUNNY THING
WITH ALL THESE PEOPLE
KEEP ON TELLING ME
THEY KNOW WHAT’S BEST
AND WHAT TO BE FRIGHTENED OF
AND ALL THE REST ARE WRONG
THEY KNOW NOTHING ABOUT US

AND THOUGH THEY SAY IT’S POSSIBLE TO ME
I DON’T SEE HOW IT’S PROBABLE
I SEE THE COURSE WE’RE ON
SPINNING FARTHER FROM WHAT I KNOW
I’LL HOLD ON
TELL ME THAT YOU WON’T LET GO
TELL ME THAT YOU WON’T LET GO

I’M NOT ALRIGHT…

THIS COULD BE SOMETHING BEAUTIFUL
I KNOW...


Terra Naomiのホームページ:
http://www.terranaomi.com

2007/01/02

2007年のご挨拶

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年は、大好きな祖父とのさよなら、クリスマスの日の4名の死刑執行、そして「目には目を」の報復を見せつけるようなサダム・フセインの死刑執行等が重なり、命について考えさせられながら、一年が終わっていきました。

祖父の死は、家やお通夜や告別式の場等で、残った親類、家族、友達、近隣の人々、その他の人たちをつないでくれました。祖父がこの世を去ったことで、普段なかなか会う機会や語らう機会を持ち得えなかった私たちは互いの顔を合わせる場と機会を持つことができました。

でも、サダム・フセインにもたらされた死は、この世を引き裂き、人々を分断してしまったような気がしてなりません。

生き物である私たち人間にとっては避けて通れない死、この世での生活の終わりの日。「残る人々の心を引き裂き」、「人々を分断させる死」に価値を見出すのではなく、この世に残る「多くの人々をつなぎ」、「残る者たちを生かす死」に命の不思議を感じ取り、一人一人、一つ一つのかけがえのない命の循環の中で私たちが生かされていることを改めて感じ、感謝しつつ日々を送ることのできる恵みの多い一年でありますように。

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好きな言葉:"Differences are not a threat, but a treasure" by Jean Vanier (ジャン・バニエは、尊敬する人の一人です)

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