るるどの覚書

全く私的な独り言から、素朴な疑問や社会的な関心ごとまで、北欧での生活の中で感じたり、思ったり、考えたことの覚書ブログ。気軽にコメントして下さると嬉しいです。

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2006/08/30

学校に「通信簿」

学校に“通信簿”が導入されるという記事を読んだ。以来、これからの教育を受ける子供たちが置かれる教育環境について、いろいろと考えをめぐらす。子供は大好きだけれども、子供を産みたいという気持ちを削ぐ国策ばかりが目につく今日この頃。こんな息苦しい社会に子供を産み残したくはないという気持ちがますます膨らんでいく。(偏差値、北辰テスト、内申書などの評価ばかりが重視される学校環境は、評価に反映されないことは、軽視される傾向が強まり、学生・子供たちの持つ多様な可能性を奪ってきたと思う。それに加えて、これからは学校に通信簿が導入され、いずれ日本全国の教育の場が国によって査定される…。君が代を全生徒が起立して歌う、日の丸を毎日掲げる、愛国心をはぐくむ教育プログラム、国への奉仕等の評価も導入される日が来るかもしれない。)

今年は、一部の公立小・中学校が対象になる。将来的には私立の小・中学校や幼稚園や高校までも評価の対象になっていくとのこと。日本全国の小・中学校、幼稚園、高校までもが、国の決めた基軸に沿って評価(5段階評価)されることになる…。教育現場から悲鳴があげられてきそうな政策。

一つの評価軸で学校のレベルを示す偏差値も、子供たちの教育に良い影響を与えず、教育というものをとても狭い枠組みでしかとらえられないものにしてしまった。これからの学校の「通信簿」はどんな影響を子供たちや社会に与えていくのだろう。

教育の場から、臨機応変な対応を可能とする余裕や個別的で柔軟なかかわりの機会が奪われ、現場がますます息苦しくなっていく。子供たちも先生方もかわいそう。

子供たちの未知の可能性を伸ばす場ではなく、強固に管理された枠組みの中で子供たちを飼いならしていく時空間になっていく教育現場…。

以下、学校の「通信簿」に関する読売新聞の記事です。
*******************
「学校に“通信簿”…文科省が現場取り組みを5段階評価」
(2006年8月28日3時2分 読売新聞)

文部科学省は、小中学校の授業内容や学校運営などを客観的に評価する統一基準を定め、各学校を「評定5」から「評定1」の5段階で評価していく方針を決めた。

 国が、学校現場の取り組みを数値で評価するのは初めてで、今年度は全国124の公立小中学校で試行する。これまでも教職員や保護者ら学校関係者による学校評価は行われていたが、今回の5段階評価は、学校と直接かかわりのない第三者が各学校の真の実力を見極め、教育の質の向上につなげるのが目的だ。

 9月から始まる評価の対象となるのは、47都道府県と15政令市にある公立の小中学校各1校。文科省は来年度以降も対象を拡大し、将来的には私立や国立も含め、幼稚園や高校などへの評価も検討する。

 これまでの学校評価制度は、保護者や地域住民に、教育活動や学校運営の状況を公開するなどの目的で、2002年4月に導入された。教職員による自己評価のほか、保護者らによる外部評価を行っている学校も多いが、評価方法が統一されておらず、教職員の反省会を「評価」としている学校も少なくなかった。文科省によると、評価を数値化している学校や自治体はほとんどないという。

 これに対し今回は、文科省が、「学校における教育」「学校の管理運営」「保護者、地域住民との連携」の3分野、計18項目の評価項目を設定した。

 例えば、「各教科の指導状況」の項目では、「説明や板書など各教員の授業の実施方法」や「個別指導や習熟度に応じた指導が行われているか」など、10の指標をもとに評価。「多くの児童生徒が集中して学習に取り組んでいる」「教室内は清掃、整理整頓され、掲示物も適切」などの状況なら「評定3」になる。全国的に見てもすばらしい取り組みで、ほかの学校の参考になる場合だと「評定5」、取り組みが全く行われておらず、成果がほとんどないと「評定1」となる。

 ほかにも、複数の学校が参加する学力テストの結果などから判断する「児童生徒の学力・体力」、出席率や遅刻状況を調べる「児童生徒の出席状況」などの項目があり、これらの評価結果などを基に、学校の総合評価が決まる仕組みだ。

 9月からの試行では、文科省の職員や専門家など計3人が学校を訪問。1~4日かけて、授業の視察や校長からのヒアリング、職員会議の参観などを行う。

 今年度は試行のため、評価は学校に通知するだけで公表しないが、文科省では「将来的には、公表も検討する」としている。

 今回の試みについて、教育評論家の尾木直樹さんは、「問題点を指摘して改善を求めるなら、具体的に指摘すればよく、数値で示す必要はない。数値を上げるために、表面的な実践を行おうとする学校が出なければいいが」と懸念する。これに対し、文科省は「5段階評価は自分の学校がどの水準にあるかを把握しやすくするためのもの」としている。
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2006/08/20

みせしめ

みせしめ:「懲罰を公開したり、懲罰が行われたことを公示することにより、第3者へ警戒心、恐怖心を煽り、罪の抑止力を期待したり、権力者への忠誠心を維持する行為。」      「はてな」より引用

********************
放火され、全焼してしまった加藤紘一議員の山形県にある実家、そこで図られた割腹自殺未遂…。この件に関して、思いをめぐらせれば、めぐらせるほど、「みせしめ」のように見えてくる。

これからの日本においての思想統制、人身のコントロール、国家思想強化のための下準備の一つとつの「みせしめ」とも思える今回の事件。

「異なる意見を発言し続けると「加藤紘一」に起きたことが、おまえにも起こらないとは限らない。無駄な抵抗はよして、黙って、いい子にして長いものに巻かれろ」というメッセージを、今回のことを通して日本中に送ったような気がする。当初、そのような意図を持って行われた事件でなかったとしても、結果的には政治活動や言論の自由を脅かすものとなってしまった気がする。

生まれ育った実家が全焼し、そこで割腹自殺未遂なんてされたら、これからの地元での活動に支障をきたすことになるかもしれないけれど、政治家たちの中にも、さまざまな意見があるということを示すためにも、自身の意見を発言し続けていってほしい。

また、政治家だけでなく、「言論の自由」・「思想の自由」を守るためにも、できることを行う責任が私たち一人一人にもあるのだと思う。これは他国で起こっている話ではなく、自分たちが生活している日本のことなのだから。

何はともあれ、97歳の加藤議員のお母様が無事だったことは何よりでした。ただ、高齢の女性が外出していた短い間を見計らっての放火、実家の全焼、また割腹自殺未遂など、すべてが計算ずくめであるかような緻密な犯罪行為。万が一、お母様の命が奪われていたとしたら、世論は加藤紘一議員を同情し、犯罪団体を批判するような流れになっていたかもしれない。しかし、人命を奪わずに、実家を全焼し、その土地に割腹自殺未遂者の血を残した。すべてが綿密に計算されつくされたかのようなこの犯罪は、この道の「プロ」中の「プロ」が計画したものなのだろう。(以上、私の憶測でした。)


以下、加藤紘一議員のHPより抜粋:

http://www.katokoichi.org/

「山形の実家全焼について

ニュース等でご承知かと思いますが、鶴岡市にある私の実家が昨日、全焼しました。
庭には割腹して火傷を負った男性が倒れていたということで、放火の疑いがもたれています。詳細については、今後の警察の捜査の状況を見守っているところです。
実家には97になる母が一人で住んでいたのですが、たまたま外出していて無事だったのがせめてもの救いです。頭はしっかりしている母ですが、足腰は年相応なので外にいてくれたことは本当に不幸中の幸いでした。
また、子供のころから慣れ親しんだ家が今はもうないのかと思うと、悔しくやるせない思いでいっぱいです。父の思い出の品も焼けてしまいました。理由はどうあれ、母の命を危険にさらし、思い出という財産を奪った者に対して、大きな怒りを感じています。

しかし、一番悲しみが深いはずの母が、「着物も燃えちゃったけど、もう着る機会もないし、しょうがない」と、気丈に笑ってくれました。昔よりずっと小さくなった身体で。私は、驚きました。母を励ますはずの自分が、逆に励まされてしまった。頑張らなきゃいけないと、改めて思いました。

今回のことは悲しく許せないことですが、私は政治家ですから、信じていることは今後も発言し続けていきます。
昨日から、電話やFAXやメールで、実にたくさんの応援の言葉を頂いています。
その皆さんの気持ちに応えるためにも、発言し続けていきます。
また、状況に変化があったら報告します。
ご心配頂き、ありがとうございます。」

(注:私は、加藤紘一氏の支持者でも自民党員でもありませんが、今回、加藤議員や家族をこのような状況に追い詰めたことの持つ意味やそれが影響する今後の世の流れに不安を持たずにはいられません。そして、また言論の自由・思想の自由が(建前的には)許されているこの国で、このような「みせしめ」が行われるなんて…残酷すぎる。)

2006/08/11

お盆さま

8月13日は、お盆さまをお迎えに行く日。堤燈の中にろうそくを立てて、火をつけ、迎え火と一緒に家に帰ってきます。仏壇のろうそくに火が消えないようにして、移します。お盆様が戻ってきている間は、一日に何度も仏壇にお線香をあげて、いろんなことを語りかけ、お願いします。亡くなった親類に語りかけるように、小さなころは家族を見守ってくれていることに感謝したり、家族の健康をお願いしました。今は、家族のためのお願いだけでは不十分だと感じ、この世の平和と人々の心の平安をお願いします。

一番身近に感じる仏さまは、食糧難の戦時中に栄養不足で亡くなった母の姉です。母の姉は一歳になる前に亡くなってしまいました。祖父母はどんなに悲しかったことでしょう。その後、母が生まれました。もちろん、私は実際には会ったことはありませんが、とても身近に感じます。特に、お盆の時期は、近くで見守られているような気がして心強く感じます。

中東での戦争、日米のこれからの動向を不安に思い、戦争の犠牲者でもある母の姉は、心を痛め、悲しみ、この世の平和を願っているに違いありません。

15日は、提灯のろうそくに火を灯して、送り火とお盆さまを送りに行きます。来年のお盆までお別れです。

昔の人たちは、『お盆さま』などと、すごい儀式を考えたものです。

2006/08/10

地に堕ちた天使

実際にあった出来事と夢の話です。

ある夜、夢を見ました。地に堕ちた天使の夢でした。白い肌でやせていて繊細そうな天使が、体中傷だらけにし、天からこの地に向かって落っこちてきているのです。少しカールのかかった栗毛色の髪の毛にはゴミがつきぼさぼさで、背中の白い羽もぼろぼろ。下半身を覆っている白い布も汚れぼろぼろになっていました。普段ほとんど夢を見ない私なのですが、その夜はそんな夢で起こされました。

夢にあらわれた天使は、弱りきっており、助けを求めているように感じられました。夢をみるなんて珍しいな、何でこんな夢を見るんだろうと思いながら、その夢にはなんらかの意味があるような気がして、忘れないうちにと、枕元にあった鉛筆で一枚の白い紙にそのイメージを描いておきました。

その数日後、日本から遠方に住んでいた私のところに、弟が病気で入院すると電話がありました。弟の病気の話を聞き、それがあまりにもショックだった私はボーっとしながら電話をしていました。その時、夢にあらわれたぼろぼろになって堕ちてきた天使は弟だったのかもしれないなと思いました。

象徴的な夢でした。

実際に何かおきる事前に、これから起きる事を伝えてくれるような夢を見ることがあります。第六感が特に鋭いわけでもなく、心霊写真の霊の姿を見たことも無い私なのに、こんな夢を見るのがとても不思議です。

このような経験をするたびに、大切な人たちとの目に見えないけれども、確かにある心のつながりを感じさせられます。目に見えなくても、確かにあるつながりを見過ごすことなく、感じることができるように、常に感覚を研ぎ澄ませていたいとの思いを強くしている今日この頃です。

2006/08/05

“持続可能な制度”

“持続可能な制度”の構築という、もっともらしいフレーズが官僚、政治家、評論家などによって使われていますが、これは生活者一人ひとりを考えている方策ではありません。まず制度ありきであって、生活者は二の次という態度が見え隠れしています。“持続可能な制度”のために、という大義名分をかざし、生活者からは保険料を払わせ、税金を納めさせる。生活者が保険料・税金を支払っているかぎり、“制度”の維持は可能なのです。

これは、〈生活者のニーズにあった社会サービスの提供〉〈何かあったときに瀕死の状態にならないためのセイフティーネットの提供〉とは別のことなのです。人々は生活に苦しみ、満足に教育も受けられず、過労死し、医療も受けられなくても“制度”は存在し続けるのです。多くの人が生かさず、殺さずの状態に置かれたとしても、お金さえ支払われていれば、制度は持続するのです。

以下、「持続可能な制度」で検索して、出てきたものをいくつかあげました。

「・・・年金制度は、国民の退職後の生活を支える柱であることから、長期に安定的かつ持続可能な制度でなければならない。・・・」経団連

「・・・急速な高齢化、経済の低迷、医療技術の進歩、国民の意識の変化など、 医療制度を取り巻く環境は大きく変化しており、将来にわたり、医療制度を持続可能な制度へと再構築していくために、その構造的な改革が求められている。」政府・与党社会保障改革協議会

「このため、発足から5年を迎え、見直しの時期に当たっていた介護保険制度を、持続可能な制度へと再構築し、さらに、高齢者の現状に見合ったサービスの質の転換を図ったのが 昨年(2005年)の法改正です。」(公明党)

「社会経済と調和した持続可能な制度の構築と制度に対する信頼の確保. ∼現役世代の 負担への配慮と公的年金にふさわしい水準の確保∼ 」「持続可能な安心できる年金制度の構築に向けて(厚生労働省案)」の概要

政治組織、官僚組織、そして経団連、皆“持続可能な制度”の構築を目指しています。

私は“制度”を批判しているのではありません。まず、何のための“制度”であるのかを明らかにし、それに沿った制度づくりをする必要があると思うのです。

権力者を肥えさせるための制度づくりは論外にしてほしいというのが個人的な要望です。

“持続可能な制度”というフレーズを聞くたびに、アメリカに不法移民したメキシコ人の友達の話を思い出します。(今では、友人はアメリカで市民権を得、家族を持ち、一軒家を購入し、安定した仕事をしながら生活しています。アメリカ生まれの娘さんと息子さんも、すでに中学生になろうとしています。)メキシコでまともに食べていけるのは、役人、政治家、そしてトヨタなどの大企業の工場で働いている人たちだけだと言っていました。多くの人たちにとっては、自国での生活はあまりにも悲惨で惨めだから、南米からアメリカ合衆国へ、命の危険を冒してまでも国境を越えて、可能性を求める行動を取る人たちがいるのです。

友人の母国、メキシコにおいても“制度”は存在し、維持されています。

2006/08/04

女性の体=戦場

10年以上も前だったけれど、"The body as a battle field"と書いてあるT-シャツを見たことがある。そういえば、Germaine Greer がそんなことを書いていたなぁ。

“A woman's body is the battlefield where she fights for liberation. It is through her body that oppression works, reifying her, sexualizing her, victimizing her, disabling her.”
             ― Germaine Greer “The Whole Woman”

彼女は“The Whole Woman"という本を通して、“the unique gifts of women are wondrous antidotes to the poisons of a harsh world, if we nurture them.”ということを教えてくれる。
 
「戦場のような女性の体」についての覚書

世の中からは、常に、痩せろ!かわいくいろ!きれいでいろ!いい子でいろ!従順でいろ!言うこと聞けば、守ってやる!いつまでも若くいろ!五体満足の子供を産め!男や子供や家族に仕えろ!いつまでも元気で介護しろ!というメッセージがいろんな方法によって女性に向けて送られている。今はそれだけでは、十分ではなくなり、よく働いて、もっと稼いで、家にも社会にも貢献しろ!なんてことも要求される。

そして、多くの日本の女性が、そんな要請に一つひとつ応えようとがんばっているように見受けられる。

そういえば先日も、二人の若い女の子の会話で、こんなことが交わされていた。「ちょっと太っちゃった、こんな太い二の腕、許されない!」「そんなの許されないよ~」

「こんな爪、許されない」「こんな髪型、許されない」となどという表現を何度も使うのです。十二分に痩せていて、かわいい女の子たちは、自分の二の腕や爪や髪型に納得のいかない様子でした。深刻な意味はないのかもしれないけれど、「・・・許されない」という言葉を繰り返していました。 それから、「あの子は、顔がかわいいから、ちょっと太っていても許されるけど、ブスだったら許されないよ」とも・・・。「許されない」という何度も出てくる表現に、ぎょっとした私でした。世間の期待に自分がそっていなければ、「存在することさえも許されない」ような重圧、恐ろしいものがあります。(「許せない」ではなく、「許されない」と、受身で裁かれる立場に身をおいた表現なのです。)

そんな外からの目に見えない要求を常に感じつつ、そんな無理な期待に一生懸命応えようとする涙ぐましい努力・・・女性の心身が戦場のようにもみえてくる。

<リストカット>
やっちゃいけないとわかっているのに、ナイフで手首を傷つけてしまう。傷だらけになっている手首・・・何もかもうまくいかないから、自虐的になって、自戒の念を込めて、切っている時もある。生きている実感を得たいから、自分の腕を切る時もある。生きているのがあまりにも辛くて、身体の痛みで、心の痛みを消そうとすることもある。自分の体を傷つけてうれしい人なんていないのに・・・。傷つけることをやめられない。誰かにこの目に見える傷に気づいてほしい、助けてほしいと思っている人も少なくないのです。

<強要された性行為>
したくもない相手にSEXを強要され、傷つけられている下半身。それは、レイプだったり、一見合意があるようでも強要された性行為だったり、泣く泣く生活のためにしていたり、男性に気に入られるために我慢してやっていたり・・・。女性の体はそんな男性の欲求のはけ口としてあるのではないのに。女の子も自由になろうよ!という現代社会のメッセージがあり、性行動をあおるけれど、いつの時代も女性の体は同じ。大切にしてあげないと、心から壊れてしまう、身体的にも病んでしまう。「セックスできれいになろう」なんて雑誌を見ると、しない女の子は何か損をしているような気にもさせられる。好きな人と愛情のある関係の中でのSEXは女性をきれいにすることもあるかもしれないけれど、それ以外のSEXは、私は、女性を醜くしてしまうと思う(外見に限らず)。

<美容整形>
美容整形に大金を支払い、痛い思いをして修正する顔や体。顔に注射して、しわを伸ばして顔の張りをつけていた人がいた。痛々しかった。医者の奥さんで、腕の良い美容整形の医師にやってもらっているとのこと、やぶ医者ではなかったと思うけれど。術後は、顔や首を赤く晴らしていたこともあった。そこまでして、若くありたいかなぁと思ってしまうほど、術後は醜く痛々しい姿だった。一度、やり始めるとやめられない様子。おなかの肉をとったり、胸の形も変えていた。お金をかけて、体にメスや注射針や異物を入れて、痛い思いをしてまでも、美しく若くありたいと思わせるものは何なのだろう。いつも自分の容姿や自分がどう見られているかが気になって仕方なく、決して幸せそうには見えなかった。

<過食・拒食・摂食障害>
おなかがすいてもいないのに、食べて、食べて、吐いてしまう、その繰り返し・・・胃液で歯がぼろぼろになってしまう。栄養をとるために食べているのではないから、体力も落ちてきてしまう。めまいや貧血が頻繁におこり始める。無駄に、アイスクリームやドーナッツやポテトチップスやカップラーメンやチョコレートなどを買い込んで、無理やり体内に詰め込んで、吐く。下剤をかけることも。その繰り返し。いつも何を食べよう、今度はどうやって吐こうとかばかり考えていて、ほかの事が手につかなくなる。太りたくない、無駄遣いしたくないのに、またお店に行って買って、食べて吐く。周りの人は「最近やせたんじゃない、きれいだよ」と言ってくれる。あばら骨も出て、ごつごつした体になってきているのに・・・、鏡に映してみると、とても太って、醜く見えてしまう自分の姿。もっと、もっと痩せなくてはと思ってしまう・・・。

こんな経験をしてきている女性は、決して少なくないのです。
社会の眼差しにもてあそばれ、それに一生懸命に対応していこうとするけなげな女性たち。自分のありたい姿、したいこと、言いたいこと、持つ想いを、ぎゅうっと心の奥に押さえつけて、しまいこみ、自分ではどうにもならない外からの要求に応じる。自分には外からの期待や要求はコントロールできないし、どうにもならないから、自分だけは、自分の体だけは、どうにかしてコントロールしようと一生懸命になる。そんなことばかり続けていると、いつか本当に自分を失ってしまう。

~コントロールから開放されるために~
コントロールできるのは、自分の体だけと感じている多くの女性・・・。したくもないコントロールを自分に課して、自分らしさを失っていく。
もう、すべての外的なコントロールから自己を解き放ち、自由にしてあげてもいい時かもしれない。人や世間にどう思われるか、どう見られるかよりも、自分の大切にしていることは何か、自分の本当に好きなこと、やりたいことは何か、どうやって生きたいかということのほうが、ずっとずっと大切だと思う。ひとりひとりの女性が、生き生きと自分らしく生きてみようと思い立ち、そんな生き方を選択したとき、女性の体は解放されるのだと思う。

そして、そんな女性たちの選択を支え、温かく見守る人たちが増えますように。

**********************
小泉首相は靖国参拝までも「個人の心の問題」にしてしまうけれど(他の人の入る余地を奪う戦略)、私は女性や子供が多くの問題を抱え込み、苦しんでいることさえも、「個人の心の問題」として片付けたくはない。これは社会の問題、メディアの問題、政治の問題でもあるのです。

2006/08/03

上野

8月6日(日)まで上野不忍池畔にて、第55回江戸趣味納涼大会、上野夏祭りが行われています。また、蓮見茶屋は8月31日(木)(水曜定休)迄、開かれています。

なぜか私は、青山や六本木や渋谷よりも上野が好きです。
特に、上野と御徒町の間にある「アメヤ横丁」が大好きです。
遠方からのお客さんが来ると「アメ横」に連れて行きます(もちろん、まずはお客さんの要望を伺いますが、特に要望がない時や「るるどの好きなとこへ行こう」と言われる時は、なんとなく足が上野に向かいます。)
人と人とのかかわりの中で、物が売買されていく雰囲気のあるアジア的なところ、闇市の面影がなきにしもあらずという「アメ横」が好きです。お金が多少足りなくても、「仲良く」なれば譲ってもらえそうな雰囲気があり、そんなところもいいのです。一円でも足りなければ物品の購入ができないデパートの中での買い物とはだいぶ違います。

垢抜けていない雰囲気も好きです。
日本以外の文化が入り混じり、ごちゃごちゃしている雑居的な空気、いろんな人々がいる庶民的な雰囲気が好きです。

街を歩いている時、見知らぬ人に声を掛けたり、掛けられたり。そんな時の会話の中で「私は日本人だと思われていない!?」と、度々気付かされる私にとっては、「アメ横」は居心地のいい、疎外感を感じさせない場所であります。先日も上野で、初対面の人とお話していると「中国人でしょ?あなた日本人じゃないよ」と言われました。アメリカや東南アジアに行ったときも、中国人だと思われ、日本人だと言っても信じてもらえませんでした。何が人にそう思わせるのか不思議で「なんで私は中国人?どんなところが中国人にみえるの?」と聞くと、人それぞれの答えが返ってきます。私としては、宇宙人でも、地球人でも、アジア人でも、中国人でも、日本人でも、韓国人でも、インド人でも・・・何人でもいいのですが。
********************

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2006/08/02

さようなら、鶴見和子さん 天国からこの地に英知を注いでください

鶴見和子さん(88歳)が7月31日に死去した。

南方熊楠研究、水俣病の人たちとともに進めた研究、「内発的発展」の理論の確立、曼荼羅の世界にまで広がっていった彼女の知。

いつも着物をきれいに着こなし、時の権力に追随することなく、凛としていた女性。

「日米開戦後、コロンビア大学博士過程をあきらめ、俊輔氏と日米交換船で帰国、二十四歳の不本意な船出は、学者生活の断念だけでなく、一人の魅力的な女性として当然の、人との絆をたつことでもあったと想像する。だが、すべてを前向きに受け止め、後悔する人生を己に許さない人、さわやかな人だった。」(澤地久枝 読売新聞2006年8月2日付)

「生類の破滅に向かう世にありて生き抜くことぞ終(つい)の抵抗」

こんな歌を残し、この世を去っていった。生き抜かなければと思う。

素敵な日本の女性がまた一人この世を去っていってしまった。

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Author:るるど
好きな言葉:"Differences are not a threat, but a treasure" by Jean Vanier (ジャン・バニエは、尊敬する人の一人です)

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