るるどの覚書

全く私的な独り言から、素朴な疑問や社会的な関心ごとまで、北欧での生活の中で感じたり、思ったり、考えたことの覚書ブログ。気軽にコメントして下さると嬉しいです。

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2006/04/30

グリーン車について

去年から高崎線と湘南新宿ラインにグリーン車両がついた。
グリーン車に乗車するには、グリーン車料金を払わなければ乗れない。

以前から、少し気になっていることがある。グリーン車には、数名の乗客しかおらず、普通車両が満員であることが少なからずある。そんな時「何か変じゃない?」と違和感を覚える。

仕事で疲れていても、グリーン車に乗るための余分なお金がない人がたくさんいる。グリーン車に乗って優雅に寝ている人がうらやましい。満員の通勤電車には、やっと立っている高齢者や障害を持っている人もいる。疲れきったサラリーマンもいる。みんなが息苦しそうに満員車両に乗っている。そんな時、隣のグリーン車両には、数名の乗客が、ゆったりとした座席に座って寝ていたり、お弁当を食べたり、雑誌を読んでいる。きっとグリーン車料金を払えるくらい家計に余裕があるんだろうな。

プラットホームでグリーン車両が止まるところだと気づかずに普通車両に乗るつもりで電車を待っていると、電車が駅に着いたとたんに、普通車両のドアを求めて走らなければならない。息を切らせながら普通車両まで走る人たちの姿はよく見かける。高齢者や障害者や荷物をたくさん持っている人が走っている姿を見かけると、「グリーン車両を追加することで、日常の電車の使い勝手が多くの人にとっては悪くなっているよなあ・・・こんな風に乗客を走らせなくてもいいのに・・・」といつも感じる。

インドでは、等級の違う車両があると聞いたことがある。高額の料金を払える人は、自分の席を持つことができる車両に乗り、一番安い車両は満員なので、人々は電車の屋根の上に乗っていたり、車両の横につかまり、落ちないようにしている人たちの姿を写真で見たことがある。その時、ひどい差別だなと思った。

他人事では、なくなってきた。

お金のある人に対してのサービスは一段とよくなっている。けれど、お金のない人たちが、そのしわ寄せをじわじわと受けはじめている。

日本もそんな社会に一歩一歩ゆっくりと近づいているような気がする。
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2006/04/30

「格差社会」批判と既得権の温存

周りをよく見回すと、「格差社会」を批判する人の中には、美味しい既得権をすでに持っていて恵まれている人が多いような気がする。既得権を温存するために「格差社会」を批判している人々も少なくないのだと思う。

既得権を温存するための「格差社会」の批判には賛同しかねる。

ちょっと、話はそれますが・・・。
先日、派遣社員で長年働いている友だちの話を聞いた。
彼女は金融業界で専門の仕事に携わっている。会社も有名。
毎年、更新しながら長年働いている。正社員になりたいと希望を伝えているようですが、その可能性は薄い様子。彼女は都内のアパートで一人暮らし。最近体調をくずしているので、仕事のことや生活のことを心配している。

同じ会社の同じ課に、二年近く休んでいる正社員がいるとのこと。お給料も70%くらい支払われており、解雇されるということにはならないらしい。

派遣で働いている友人は、仕事を休んでいたら、給与は払われないし、容赦なく解雇されてしまう。

また、私自身、派遣会社に先日行ってきた。
多くの仕事は6ヶ月ごとの更新だという。交通費は、自給の中に含まれていて、別途に支給されませんと言われた。派遣会社は、年齢枠を提示しないけれど、派遣社員を募集している企業は明確に年齢枠を提示してくると、派遣会社の社員は言っていた。30歳以下が一番求められる年齢枠だそうだ。50代になるとほとんど仕事はないらしい。

私が「それじゃあ、ずっと派遣で仕事をして、50歳になった人はどうするんですか?仕事がなくなるということですか?」と聞いたら。派遣会社の社員は答えに困っていた。「そうですね、どうするんでしょうかね。・・・50代の人にも仕事がみつけられるように私たちも頑張らなくてはいけませんね・・・」といっていた。

時給はどのくらい希望ですか?と聞かれたので「1600円」といったらぎょっとした顔をしていた。そんなに高く提示したんじゃ、仕事はないといわれたので、「最低1000円」と訂正した。みんなどうやって食べていくんだろう・・・(時給千円で一日8時間労働、一日8000円の報酬で月20日働くとすると、一ヶ月の収入は160,000円、ここから交通費を差し引くとどのくらいになるのだろう。)

派遣の仕事は、企業の理由や派遣社員の理由で、即日解約ということもあると言っていた。実際にあったケースについて話してくれた。ある企業で一年くらい働いていた女性が、今年の春、花粉症と風邪がひどくなり10日くらい休んでしまった。そしたら、その企業から派遣会社に、「仕事がたまってしょうがない」とクレームがあり、その女性は解雇された。派遣会社の人は「そんな場合には解雇されることもありますが、たいしたことがなければ契約期間中は、解雇されることはありませんよ・・・」と言っていた。正社員の過剰な保護についても疑問を感じるけれど、派遣のシステムに関しても多くの問題があると思う。

企業の正社員と派遣社員への対応に見られる格差は目に余るものがある。信じられないくらいひどい不平等。そんな不平等が格差をますます拡大しているような気がする。

ある一部の人たちは、権力や従来の社会システムに過剰なくらい保護され、それに当てはまらない人たちは、弱肉強食の競争社会に置かれ「互いに共食いしろ、それが規制緩和なんだからしょうがない!」と考えられているような気がする。そして、過剰なくらいに保護されている人たちが自分たちの身の危険を感じて「格差社会」を批判しているような気もする。

もうすでに「格差社会」はあるのです。

********************

給与は、働く者の仕事や時間に対して払われるべきだと思う。なぜ、立場に対して報酬が支払われるのだろう。なぜ、異なる立場に置かれている人たちへの対応に天と地の差があるのだろう。

どんな職についていようと、何をしていようと、みんな同じ人間なのだから、疾病や障害またはその他の事情で仕事ができない人に対しては、税金でみんなで(社会で)支え合えばいい。

矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、産業の「規制緩和」が進めば進むほど、また経済「競争」が激しくなればなるほど、人が生きるうえでの基本的なセーフティーネット(医療・福祉・住居・食の最低限の提供)は必要になっていくのだと思う。私たちは、生存を根底から奪い合う、共食いする野獣ではないのだから・・・。

2006/04/22

見えないつながり

みんなつながっている

好きな人が吐く息を吸う
嫌いな人が吐く息を吸う
みんな同じ空気を吸っている


肉や魚を食べて 力をもらう
野菜を食べて 栄養のバランスをとる
動物や植物の尊い生命に支えられて生きている私たち


大切な人が悲しんでいると 悲しくなる
大切な人が幸せだと 幸せを感じる


今 どこかに
戦争の恐怖に脅かされている人がいる
自分を守るために人を殺してしまった人がいる
孤独感に襲われ 生きる意味を失い 命を絶とうとしている人がいる
不治の病に苦しみ 激痛に襲われている人がいる
愛する人に暴力を振るわれている人がいる
お腹をすかして 飢えている人がいる

何故 私でなく あなたが苦しまなければならないのですか

2006/04/19

初体験:インターネットカフェで過ごす一夜

また、また仕事が終わらずに、終電を逃した。結局、職場を出たのは朝の2時半。駅のベンチで始発の電車まで待っていようかなと思っていたら、シャッターが降り、駅がしまっていた。しょうがないから、最寄の交番へ行き、女性が一晩居ても安全な場所があるか聞いたら、ここのインターネットカフェを紹介してくれた。朝の8時まで6時間、1150円で過ごせる。ジュースも飲み放題、歯ブラシも無料。おなかが空いていればお弁当らしきもの(サンドイッチ、デニッシュ、おにぎりなど)も販売されている。ちょっとした日用品やお菓子も売っている。思ったよりも多くの利用者がいるので驚いた。半数以上の人たちは寝ている様子。若い男性が多いみたい。みんな終電逃したのかな。それとも夜の居場所がないのかな・・・。こんな時間にこんな場所に来るといろいろ考えさせられる。ホテル代を浮かせるために、インターネットカフェで一晩過ごしている若者の一人(若者かなあ!?)として今日の書き込みをしています。こんなこと毎晩していたらむなしくなりそう・・・。

明朝から用事があり、その後、職場では山のような仕事が待っている。もう、歯を磨いて寝よう。寝られるかわからないけれど。おやすみなさい。

2006/04/17

人生の中での選び

これまでいろいろな選択をしてきたけれど、なぜあんなことしたかなあ・・・(少々後悔の念)と思う選択をしたときは大抵「偉大な宇宙の意思」に反し、自分勝手な無理強いした思いや欲望や怠慢な心に沿って行動を起こしたときだ。そんな時、これは本当は自分にとっては良くない、これは今の自分が優先すべきことではない、もっと大切なことがある、もっと大事にしなくてはいけないものがあると、心の奥深いところでわかっているのに、「目先の誘惑」に負けてしまう自分がいる。親切にも、これはちょっと良くない、やめておいたほうが良いと思わせる「サイン」が何かしらある。でも、そんなときはできるだけ「気のせい、気のせい、そんな小さなことを気にしてもしょうがない」と自分をはぐらかし、その場やその時の流れに負ける。

振り返ってみれば、納得のいく決断をした時、「偉大な宇宙の意思」との流れに合流するような心地よさが残る。それは簡単で都合のよい選択、大きな世の中の流れに乗った選択ではないけれど、自分自身に心の平安とその道を全うする力が与えられる。

また、私にとって、計画的、戦略的な選び方は後悔の基。私の場合、今、ここで一番大切なことを一生懸命することによって道が開かれていく。そして、気がづいてみると目の前に予想していた以上の道がみえてくる。そんな生き方をしている時、「この世的な将来への先の見えない不安」は無きにしも非ずだけれど、心地よい。

惰性や怠け心やあきらめの気持ちや欲に振り回されずに、もっと心の深いところから聞こえてくる声に耳を傾けながら生きてみよう。

2006/04/17

健康管理

いつからか健康管理が気になりだしました。
最近、定期的な健康診断を受けていないので、受けてこようかなと思います。

海外で生活してたときは、相性の良い女性の家庭医がいたので、何かあるとすぐに医師の所へ行き、相談して、みてもらっていました。とても心強かったです。たわいない会話も気軽にできました。「勉強のほうははかどってる?」「いつも夜は遅いの?」「最近デートは?」などなどいろんなことが話題になります。「日常生活(ライフスタイル)」と「心身の健康」は親密な関係があるから、たわいない会話は、予防や早期発見のためには有効だと思います。

一年に一度は、婦人科の検査(乳癌や子宮癌など)もしていました。
日本ではまだ安心していける婦人科のクリニック医や家庭医が見つからないので、二の足を踏んでいます。内科と婦人科など総合的な診療をしてくれる感性の豊かな、親身になってくれる女性の医師がかかりつけの医師だと安心だなあ。ちょっと探してみよう。

2006/04/16

“社会的な成功者”が老いるとき

かかわりを持ったことのある数名の老いていく“社会的な成功者”から考えさせられたことです。

その中の一人の方は、多くの特許を持つ世界的な科学者。世界的な大企業や大学や専門分野の学会でも引っ張りだこの方でした。出会ったときはアルツハイマー、パーキンソン、糖尿病、高血圧、リュウマチ・・・などなど多くの病と共に生活していたときです。半年間くらい住み込み、その後一年くらいの間、そのおじいちゃんの介護をしました。奥さんは介護という重荷を背負うのはいやだったのでしょう、莫大な財産を半々にするため裁判をおこしていました。裕福な家族はみんな遠くに住んでいて、身近にあったのはお金だけ。お金を介しての介護は心がなく、ビジネスライクでとても寂しかったようです。誰も信じることができなくてとても孤独な方でした。

一銭も受け取らず、住み込みで生活の場と食事代のかわりにケアを提供していました。食事の用意や片付け、病院への同行、買い物、掃除洗濯、車の運転、話し相手、などなど、生活にかかわることすべて・・・。その間、多くのことを学びました。

まだ生きているかわかりませんが、もし生きていたら、心ある介護者と安心した毎日を送っていてほしい。

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彼に限ったことではないのですが・・・。
特に、家族をないがしろにして社会的に成功した人たちは、まわりの人たちを“小間使い”のように扱う傾向があるというのが私の印象です。「手伝うのはここまで」と明確な一線を引かないと、限りなく人の時間、労力、能力を吸い上げようとするのです。そのようにして、社会的にも成功してきたんだなあという一面がよく見えました。

悪い人たちではないけれど、自分以外の人は「自分の為に存在する」と考えてもいるんだなあと感じました。心遣いのあるときや親切な様子をみせる時は、自分に何らかのメリットがあるときだけでした。

社会的には成功したかもしれませんが、老い、病み、障害を持ち、以前のように「社会に求められる人」でなくなった時、周りから多くの人は去りました。“社会的な成功”ってなんなのだろうと考えさせられる経験でした。

2006/04/15

変な世の中

最近、最終電車に乗って帰路につく日が続いています。
終電の中で、よく見る光景があります(終電に乗るとほとんど毎回・ここ2週間で5回くらい)。立っている若い女性が、突然「どさっ!」と倒れるのです。初めて居合わせた時は、「えっ!もしかして!まさか!死んでないよね!」と心臓が止まるくらい驚きました。最近は「えっ!また?!」っと思う自分がいます。そして、冷静に様子を見ながら、すぐ意識が戻り起き上がるんだろうなと考えるようになりました。そんな風に思う自分が怖い。(もちろん、そばにいれば何かできることをしてあげるけれど・・・)疲労による貧血なのかなあ・・・と勝手に思っているのですが。倒れる時の音を思い出すとぞっとします。

若い女性の生活環境と心身の健康が心配です。
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月曜日の夜は徹夜仕事で、火曜日の早朝9時頃、帰宅しました。
私の乗った電車は、がらがらでほとんど人はいませんでした。反対方向へ向かう電車を見ると、通勤や通学の人たちが満員電車に息苦しそうに乗っていました。道を歩いていると、私と同じ方向に向かって歩く人は全くなく、向かい方向から、スーツを着た企業戦士の「軍団」が、黙々と表情もなく、革靴の硬いかかとの音を立てながら歩いてきていました。ちょうどその朝は、雨上がりで薄く霧がかかっており、寒々しく不気味な光景でした。

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昨夜は終電を逃し、夜間バス(ちなみに、料金は昼間の2倍です)で帰宅。
バスは最寄の駅まで来る。下車してから、駅前にある新装開店したばかりのセブンイレブンにちょっと道草。もう真夜中も過ぎ、1時半くらいでした。警官が数名いて、赤いジャケットを着た若い男の子たちがたくさんたむろしていました。「新装開店早々何かあったのかなあ」と思いつつお店に入った。(本当はトイレに行きたかった。トイレだけ使わせてもらうのは、悪いかなと思って、ジュースを一本買うことにした。レジで「お手洗いは・・・」と聞いたら、従業員専用ですと断られた・・・がっくり。家まで我慢。)

お店を出て、ちょっと先の道を曲がると、赤いジャケットを着た若い男の子二人が、向かいから歩いてきた。「警察まだいますか?」って聞かれた。「何かあったの?」と私。「事件もなにも起こしてませんよ・・・今、補導しているんで・・・」と男の子。「そうなんだぁ」と私。

二人はまだかわいい青年。夜ふらふらと行き場もなく外をさまよっている男の子たちの姿に、社会や家族関係のゆがみを感じた。家に帰っても居場所がないのかもしれないな。年上の仲間と一緒にいれば自分たちだけが補導されてしまって、どこへいくんだろう・・・。などなど色々考えてしまった。

別れ際「気をつけてねー」と言ったら、「ありがとうございます!」と丁寧に、元気な声でお礼までしてくれた。

私自身にゆとりがあって、大きな家に住んでいたら、その男の子たちをうちに連れて帰って、食事をつくり、一緒に話をしながら食べて、ゆっくり寝かせてあげたかった。

*************
なんか変な世の中だ。

2006/04/15

教育基本法の改正:第五条「男女共学」削除される?!

教育基本法の改正で「男女共学」という部分は削除される方向へ向かっている様子。男女共学は当たり前になり、統計上、教育機会の差異も少なくなったのは事実かもしれません。でも、地元の県では、大学進学率トップの公立高校は、男子高校と女子高校と区別されています。

私の高校受験の時、男子高校が県で一番の進学率を維持していました。共学の高校は、男子校、女子校についで、下に位置していました。共学に行きたければ、高校の“ランク”を落とさなければなりませんでした。(私は共学に行きたかった、そして共学を選択した一人。)今もそれは続いています。共学は決して当たり前になっていません。

「男女共学」の条文は残すべきだと思う。特に、「男女は互いに敬重し、協力し合わなければならない」という部分は、何故削除する必要があるのでしょう。信じられない改悪です。

男子だけのエリート学校や男子だけの防衛(軍隊)学校などが、公費でますますつくられるような気がしてなりません。

無力感を感じます。今、ここで、私に何ができるのでしょうか。

以下、参考まで:
「第五条(男女共学)
男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。」

改正の方向:
男女共学の趣旨が広く浸透し、性別による制度的な教育機会の差異もなくなっており、「男女の共学は認められなければならない」旨の規定は削除することが適当。

教育基本法資料室:
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/index.htm

2006/04/12

義務教育と私

最近、過去に戻って、自分の受けた教育について考える。
日本の義務教育とは相性が悪かった。
体罰、校内暴力、厳しい校則、受験戦争、受験地獄、偏差値、内申書、過酷な部活動、いじめ、・・・。思い返すと、ひどい教育環境に身を置いていたんだなあと思う。同じ環境にいたのは、私だけではないけれど・・・不自然なもの、納得できないことは、なかなか受け入れがたく、なじめなかった。

特に、嫌いだったのは国語。
国語の時間に読んだ話の解釈は、先生の解釈が絶対だった。
「違う」と「間違い」として扱われ、どんな言い分も、理屈も通らなかった。
つまらないなあ、くだらないなあ、ばかばかしいなあと思いつつ、何度かは授業中に、自分の考えていることを意見したこともあった。でも「先生は正しい」と言う前提があることに気がついてからは、自分の意見を言う無意味さやむなしさが感じられ、だんだんと意見しなくなっていった。

学校は嫌いだったけれど、なぜか学級委員長になったり、生徒会活動などに参加したりしていた。生活委員もやったなあ。スカートの丈、爪の長さ、髪の毛の長さ、ハンカチとちり紙を持っているか確認、遅刻のチェックなどなど毎日が管理尽くめ(今、考えるとぞっとする)私がチェックする日は、みんなが合格。遅刻した生徒も忘れ物した生徒もみんな合格にした。悪いこと、迷惑をかけることをしているわけでもないのに、なぜ人が人を管理し、裁くのか不思議でしょうがなかった。(日々の不合格や合格は内申書に反映していた)

私は「いい子」だったけれど、「不良の生徒」とも仲良く、そんな風に見られている友達とずる休みすることもあった。私も「不良の子」も同じずる休みなのに、私は「体調が悪いんだ」と思われ、その子は「また、怠けて、ずる休みしている」と思われていた。そんな差別的な眼差しを生徒に向ける先生たちを尊敬はできなかったなあ。大人は、単純だなあといつも思った。

小さい頃から「なぜ?」「なぜ?」と質問したくてたまらない子だった。でも、大人は私の「なぜ?」には答えてくれず、決まりきった答えをオウムのように繰り返していた。素朴な質問に対しては、「そんなばかばかしい質問は時間がないからやめてくれ」という態度だった。

悲しいけれど・・・人間を育てない教育を受けてきた・・・。

日本から離れ、国外の学校に通い始めた時、英語の宿題があると、日本で受けた教育の批判をよく書いていた・・・。つたない英語で、言いたいことも十分に書けていなかったと思う。でも、精神的には自由で、開放された。

私はそんなに強くないので、日本で生活を続けていたら、自分が壊されていたかもしれなぁと、ふと思う。

2006/04/09

グローバリズムを感じるとき

日常生活の中で、一番「グローバリズム」を体感するのは「百円ショップ」に行き、100円で売られている物を見ている時です。あれも、これもほとんどすべての品々が100円で買えるのです。

つくっている人たちの時給はいくらなんだろう?この陶器やかばんや雑貨などをつくっている人たちはどんな生活をしているのだろう?その家族や子供たちは教育を受けられるのかな?空腹な思いをしないで生活しているのかな?病気になった時には医療は受けられるのかな?といろいろな疑問が頭の中を駆け巡ります。

メイド・イン・ベトナムの素敵な食器やメイド・イン・チャイナの見栄えのする飾り物が一つ100円で買える。物にかかる材料費、送料、関税、人件費などを考えると、どうやっても100円というのは安すぎる。(人のことばかりを心配している経済状況にはなく、つい「100円ショップ」に足が向いてしまう自分が情けないのですが・・・)その影には搾取されている労働者がいるんだと思うと、喜んで買うことができない。

グローバリズムの流れの中において、日本は、アメリカに次いで巨悪な加害者なんだろう。私もその一人。

できるだけ地元の自営業のパン屋さんや魚屋さんへ行って、顔の見える関係の中で買い物をするように心がけてはいるけれど・・・。もう少し心がけよう。

2006/04/09

身体性と大地

最近、「言葉」や「お金」について考える。

大学の先生や評論家、証券や金融業界の人たちと話すことが時々ある。でも、あまり幸せそうな教授や金融関係の仕事人に出会ったことがない(もちろん、その中には素敵な人や幸せそうな人もいるけれど・・・。)とてもきれる言葉を使い、言葉を巧みに使いこなす人がいる。時々、冷ややかな言葉の鋭さに「ぎょっ」として、その場から逃げ出したくなることもある。また、株を持っている人たちは、大きな株価の変動があると、気持ちが揺れる。そんな人たちとは、株価が極端に下がったり、上がったりしている時は、ちょっとだけ距離を置きたくなる。

そんな風に、お金や言葉について考えていた時、農家の人や身体の感覚を大切にしている人と出会った。「身体」や「大地」と揺るぎない信頼関係をもっている人たちは、軽い「言葉」や「お金」に騙されたり、振り回されないような印象を受ける。揺るぎない自信が伝わってくる。

「大地」や「身体性」が軽視されているこの時代の流れの中で、「言葉」や「お金」がますます幅を利かせている。

人間は不安定な存在。何かしら揺るぎないものに支えられているという自覚を失うと、生き辛くなっていくような気がする。フワフワした「お金」や「言葉」だけを盲目的に信仰し続け、巧みに操り続けていると、醜く、卑しくなっていくような気がする。

そんなことを、ふと思った。

踊りの先生や助産師さんやお百姓さんがうらやましい・・・。

2006/04/07

お風呂

お風呂について考えていたときに、思い出した話です。

知人の弟さんのお話。
毎晩、彼はお母さんをお風呂に入れていあげています。
80代の認知症のお母さん。旦那さんがなくなってから、孤独感に包まれ、物事をやる意欲が落ちてしまい、生活に支障にきたす障害もでてきてしまった様子です。わかるのは一緒に生活している弟さんとその家族だけ。一週間に一度会いに来る娘さん達のことは、わからないようです。

認知症でも、足腰は強く、身体は健康なので、誰かがそばにいれば安心して生活が続けられるとのことです。

ここ数年、息子さん(知人の弟)が、すすめないとお風呂に入りたがらないそうです。また、洋服も自分から脱ぎ着しないで、脱浴するところでボーっと立ったままでいるとのこと。でも、息子さんが洋服を脱がせたり、着せてあげると、協力して体を動かしてくれるので助かるそうです。

息子さんが、お母さんの背中を流してあげている時、一番安心している様子だそうです。思いやりのある優しい息子さんに、毎晩背中を流してもらえるなんてうらやましい!

でも、お互い大変なことが沢山あるんだろうな。
生きるっていいこともあるけど、大変。

2006/04/06

電車の中の女性の半裸体写真

電車の中で、時々プレイボーイなどの広告を見かける。
裸体の女性写真が載っている。
卑猥な言葉がその写真の周りに所狭しと書かれている。

幼稚園児や小学生もみんなが乗る公共の乗り物の中に、こんな写真があるのはどんなものなんだろうとちょっと気になる。そんなことを考えながら写真を眺めていたら、私の隣にはランドセルをしょい、制服を着て、帽子をかぶった小さな男の子と女の子がいた。きっと帰宅の途中なんだろう。そんな子たちの意思とは関係なく、写真はその場にいる人の視界に入る。

大人がポルノグラフィーを見るのはかまわないと思う。芸術としても一つの価値があると思う。男性でも女性でも、自分の生まれたままの姿を写真にしたい人も少なからずいると思う。それもまたいいと思う。

でも、見たくない人もいると思う。それに、女性の裸が卑猥な言葉と一緒になったあのような広告を、小さい頃から当たり前のように、目に触れるところに置くのはどうかなぁ。

女性の体が軽視されているような気がする。写真の周りに書かれている言葉がそれをよく示している。体って、もっと神聖なものであると思う。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸って栄養をもらう。人はみんな、男女の交わりによって、人の体に宿り、人の体から出てくる。身体ってとても不思議なものだと思う。

電車の中で小さい子供が、女性の裸の載っている広告を見て、「あれ?お母さんみたいな人が裸で写真にのっているなぁ。なんか微笑みながら、半分口開けた顔してる。あれっ。よくわからないけど、面白そうな言葉が書いてあるなぁ」なんて思っていたら、ちょっとぎょっとする・・・。

女性の裸が見たければ、大人の男性は、奥さんや好きな女性と一緒に仲良くお風呂に入って、背中でも流して優しくしてあげたらいい(注:どちらかがしたくないこと、してほしくないことは、絶対にしない。お互いがしてほしいこと、したいことをしよう・・・注が長くなってしまったが・・・)。そうすれば、十分に素敵な女性の体が見ることができる。

わざわざ、あんな風に卑猥な言葉がふりまかれている女性の裸体写真を電車の中に載せないでほしいなあ。

2006/04/04

「主体性」について

上司は、職員ひとり一人に「主体的」に働いて欲しいといつも言っている。
そして、上司自身は「主体的」に働き、生きていると言う。

それを聞いている限り「主体的」というのは、「自分の都合の良い」「自分の好きな」「自発的」ということを意味しているようだ。

なぜ、わざわざ「主体的」という言葉を使うのか不思議である。

「主体性を伸ばす教育」というフレーズもどこかで聞いたことがある。
教育者は「主体性」とは何かが、わかっているのかなとふと思う。

最近、「主体性」という言葉を聞くと、アレルギー反応が起きる。先生や上司が、生徒や部下の「主体性」について話し始めると、欺瞞に満ちた人々に見えてくる。どうやって教育したらよいかわからない先生や、どうやって指導してよいかわからない上司が、生徒や部下の「主体性」のなさを理由にして、自分の指導力の未熟さを上塗りするための言葉のように聞こえてくる。

生徒や部下が「主体的」に動いてくれれば、先生や上司はとても都合がよい。
この場合、生徒や部下の「自発的な動き」は、先生や上司にとって都合のよい動き、先生や上司が「良しとすること」でなければいけないという条件がある。

結局は、指導者の怠慢や無能力を隠蔽するために使われている言葉のようにしか聞こえてこない。

主体性とは何であるか絶対的な答えはわからない。
でも、主体性を伸ばす環境がなければ、主体的に考えたり、動いたりすることは無理であるような気がする。主体的な行動をとるときは、自らを律し、自分の選択した行動について自分なりの考えを持ち、それを説明できる表現力も必須だと思う。それだけの人間力が育まれ、そのようなあり方が許される環境ではじめて、主体性は伸びていくような気がする。

主体的に働くことや、主体的に生きることは、そんなに容易いことではないと思う。

2006/04/02

国・友情

「中国や韓国を叩く日本」の動きについて考えると無性に悲しくなる。

国と国との関係が、友情や人と人との関係に与える影響を懸念する。

子供の頃、隣のアパートにちょっと年上の男の子たちがいて、よく遊んでもらった。お兄ちゃんのような存在で、いつも一緒に走り回って鬼ごっこや刑ドロをして遊んだ。懐かしい思い出がたくさんある。兄弟みんなが「朝鮮学校」に通っていた。なんで、違う学校にいくのか不思議だったけれど、帰宅後は一緒に遊んでいた。互いの親も何も差別的なことは全く言わなかった。朝鮮とか日本とか、そんなこと全く関係なく遊んでいた。

ある日、突然引っ越してしまった。さようならも言ってもらえないくらいの友だちだったのかと、その時は悲しくてしょうがなかった。

今思えば、生活も不安定で、大変そうだった。いろいろな事情があったのかもしれない。北朝鮮から来たのかもしれない。私にとっては国籍や人種や文化の違いなど、そんなことは気にならなかった。むしろ魅力的なことだった。だって、自分にないものを持っていて、自分の知らないことを知っていて、自分の経験できないことをしてきているのだから、お互いに吸収しあい、学びあえることがたくさんある。

今、会ってもお互いわからないと思うけれど。もし、どこかで出会うことが出来たら「突然、いなくなっちゃったから、とても悲しかったよ」と伝えたい。どこで生活していても、元気でいい人生を送っていてほしいと願う。

互いの国の仲が悪くても、そんなことは友情には無関係であってほしい。友だち関係が、国同士の争いに、巻き込まれてしまうことだけはあって欲しくない。悲しすぎるから。

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Author:るるど
好きな言葉:"Differences are not a threat, but a treasure" by Jean Vanier (ジャン・バニエは、尊敬する人の一人です)

email: mariaatlourdes@hotmail.com

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